ぴょん記

こつこつ憶える

息苦しさ

 他人にやさしくしても、自分が楽になるとは限らないけど。だからといって、なんでも叩けば自分が浮かばれるというのもいかにも杜子春で春の宵。

 

 NHK朝の連続テレビ小説花子とアン」で、 主人公の子役時代を演じる山田望叶(やまだもちか・9歳)を、もはや大人といっていい年頃のルームメイトたちが、あるいはばしばしと叩き、あるいはひりひりといたぶるかのような描写が続いて、心が痛む。あのドラマで描かれている時代よりずっと以前、明治初年の婦人向けの学塾には、貴顕やブルジョアジーの奥方も通っていたというから、生徒の年齢差はさらに大きく、寄宿舎はともかく教室にはさぞかし華やかな色彩が溢れていたことだろう。

 

 それはともかく、もしかして、語尾の「じゃん」は神奈川県の海岸固有の方言というのはただの思い込みだったのか。

 

 「みんなの党」内の、いわゆる渡辺商店の一時休業は、いたしかたなしといえども、結局、知名度その他で党内代議士中圧倒的な存在である主のことだから、乃公出でずんばの機運を察するや、いや、ほとぼりが冷めれば、また暖簾を掲げてしょうばいをはじめることであろう。

 

 およそ「引き際」ということを考えれば、作曲家も政治家も研究リーダーも、以前ほどはあっさりと引かないようになった。これは、たぶん、ネットの普及もその一因にカウントされるのではないか。

 

 つまり、情報がテレビや新聞といった既存メディアに加えてネットにのってぐるぐるした挙げ句、誰かについて、あるいは、何かについての情報の塊が世間様の海を漂っている時間が長くなり、その結果、さっさと引いてしまっては、あとで取り返しのつかないことになりそうな懸念が残りがちな気分ができあがっている、かなと。

 

 いわばこの残響めいた、余後効めいた厭な感じをなるべくきれいにしておいて、その後の復活に向けての第一歩を踏みしめる気丈さが、作曲家・政治家・研究リーダーには、きっと事前に内蔵されているのだろう。なぜなら、たかだか一度のしくじりで挫けていては、求められる能力を獲得し、その地位にたどり着くことなど、到底叶わなかったであろうから。小さな挫折と立ち直りは、その生活史に無数に刻まれていることだろう。

 

 渦中の人は、罵りにも揶揄にもなんとか平然とした表情で切り返そうとする。いったん標的にされた場合のきつさは、程度の差こそあれ、各国各地域共通で、まして、高く掲げられたあとに地に墜とされたとき、棒を構えた関係者、通りがかりの野次馬、なんの関わりもないだれかさんが、思いがけない反応をみせる。 

 

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  渡辺商店のあるじはともかく、作曲家と研究リーダーについては、NHKという、年に1回、日本円で5桁にのぼる銭をわたしの口座から引き落としていく公共放送をもって任じる組織体が個別に持ち上げたり、マスコミ各位が新発見となぜか割烹着での研究を報じたりしていたりしていた時期にテレビや一般紙にまったく触れていなかったので、実はよくわからない。作曲や研究という本業から離れすぎたところが取り上げられ、喧伝されるというのは、本人ではなくて別のヒトやカイシャが潤うために入り用な事柄かもしれないが、あざとくなりすぎると、結局、本人に不利益が付け回される。

 

 どうか本人に、闇雲に「おどろきの白さ」を要求するならともかく、10パーセントの黒・30パーセントの灰色のところを、30パーセントの黒・60パーセントの灰色と判定しない聡明さを。それが、いずれ自分に返ってくるものと、信じられるに十分な成熟をすでにわたしたちは得ているのではないだろうか。

 

 なにしろ、わたしは、ブログのエントリを書いたり引っ込めたり、そういう一種の自己編集権について、とやかく言わいでもいいではないかと考える程度のちいさい人間なので、無料(タダ)やと思ってせいだい騒いでるのをみて、無料(タダ)ほど怖いものはないで、と感じるのだ。