ぴょん記

こつこつ憶える

水無月はみずいろ

 2週間おきの定期通院が2回、イレギュラーの検査が1回、転院のための紹介状受領が1回と、たった4回しか病院に足を踏み入れていないのに(しかも、イレギュラーの検査は、別の医療施設で受けた。)、6月は通院だけしていたかのような気がする。

 

 もちろん、遠方で、シマリスやサメも眺めたし、魚介も食べたし、都内では、仕事もしたし授業も受けた。とはいえ、合間に蘇ってくるのは、あのタブレット型端末の操作すらやんわり止められた安静室での気怠い感覚であり、採血の順番を待つ間の眠るほどの待機時間ではないのに時折意識が飛ぶ気配だったり。

 

 面接でも試験でも検査でも、わたしは、自分が苦手な事象に際して、すぐに寝て遣り過ごそうとする。しかし、検査はともかく、面接と試験は、実際に眠れるわけもないから、意識がクリアでないぶんだけ損をすることになる。したがって、面接や試験の数日前からカフェイン抜きを心がけ、当日に少量のコーヒーを啜って目を覚ましておく。

 

 はたしてどちらなのか。つまり、つねに眠さを感じているために同じように眠たかった検査の前の時間を思い出すのか、それとも検査の前の時間の印象が強いがためにそのときの身体感覚としてもっとも強かった眠さを追体験するのか。

 

 そうそう。眠さには理由がある。しっかり目を凝らせば自分の部屋からその存在が確認できるほど近い母校の校舎に行くために、感染予防の目的と、情けないことに地下鉄の階段がのぼれないために、不本意ながらタクシーを使っていた時期は過ぎた。あれは財布を直撃する。自宅から母校までタクシーでおおよそ2鮨(出前)かかるが、わたしは自分ですし飯を調製して一口大の刺身をのせた手巻き寿司にするので、同じ車代が6鮨(自宅)に相当することをしっている。

 

 タクシー代のことはともかく、それでも外をほっつき歩かないことには筋力が戻らないので、いえの近所だけではなく、都内や地方へ出掛けていった。歩くというのは全身運動であると実感するのは歩いている最中ではなく、いえなりホテルなり、落ち着いた場所で風呂上がりの足や肩を自分でチェックするときである。あたまを支えていたぞと肩が主張すれば、両方の踝の上は自分たちこそ全身を運んでいたと悲鳴を上げる。そういうのをなんとか宥めなだめして次の日もよろよろ歩く。あまり自覚はないけれど、それはおそらくとても疲れる行為だ。だから、たいてい、いつも眠い。

 

 筋力が戻れば、きっとこんな心情は忘れてしまうことだろう。だから、いまのうちに書き留めておく。