ぴょん記

こつこつ憶える

なにかを捨てる

 NHK朝の連続テレビ小説『まれ』を全部ではないにしても一通り見ている。小日向文世さんが主人公の修業先のオーナーパティシエで、彼については、香川照之西島秀俊の出演した『ダブルフェイス』や、北野武監督作品『アウトレイジ』等でわたしにとってはすっかりワルのイメージが定着している。ゆえに、いついかなる瞬間に、まれに向かって、「おれはお前のことを本当の娘だと思っている。」と囁いて鉄砲玉に仕立て上げようとするか、朝からなかなか気が抜けない。

 

 その文世師匠が、先週のラストで、「なにかを得ようと思ったら別のものを捨てなくてはいけない。それをしなくてもいいのは一握りの天才だけだ(原文ママ、ではない。)。」と言っていた。わたしにはもう能動的になにか価値のあるものになる体力がないので、消極的になるべく長期間寝たきりにはならないように心がけるぐらいしかできることはない。細々と稼いで、余計なことはせず、きれいに暮らして、できる範囲で募金するくらいだ。

 

 それとは殆ど関係ないことながら、雑誌など、いっぱい捨てなければなあと思う。家に蔵や倉庫のあった、昭和前半の暮らしを引き摺っているために、何十年か前の雑誌の束がひょこっと出てきて、それを筵の上で日にさらしながら捲った楽しい記憶がまだ残っているのだ。まして、現代の生活情報誌は、紙もインクもすばらしく(そしてその結果としてとても重い。)、きっと遠い将来のある日に開いても、すてきな服おいしそうな料理が読む人の目を楽しませることだろう。

 

 その日に読む人がいれば。その日まで雑誌を保存する空間があれば。

 

 陶器を蒐集するのに二の足を踏むのと同じ理由で、つまり、相続してもらう人に心当たりのないために、自分の去ったあとにものを残したくない。自分の残した身体と、最低限の身の回りの品を処分してもらうための事務費用を専門家に託してそのままいければいい。はたしてそのようにうまくことが運ぶのか、それはわからないし、自信はまったくないけれど。