ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

「加勢して」ほしい

  自分の個人的な経験に基づく持論を展開しても、そもそも世の多数派に属する働きかたもしていなければ、子も生み育てていないので、きっとどう粘ってみてもおそらく汎用性に乏しい理屈に終始すると、この種の話題が出ても、ふだんはもっぱら黙っているのですが。

 

結婚して家事が一人分が二人分になったってだけでなんでこんなに負担が増したのかずっと不思議だった

一種、家庭内政治力学めいたものも感じるが、そろそろ男女雇用機会均等法制定後、最初の世代のお母さんをもつカップルが所帯を構えたり共同生活を開始する時期なので、家事分担の実相もだんだん変わっていくのでは。

2015/08/06 17:10

 

 雑誌「VERY」の新聞広告では、子育て中の「妻」が、同じく子育て中である、その「夫」に向かってメッセージを発信するというスタイルで、「口頭で日頃の家事労働に対する感謝の意を述べるにとどまらず、実効性ある労働力として家事に参加すること」を既婚女性がパートナーに求めていることを表現した。

 

 これについて、「察して、ということか」「いったいトイレットペーパーは残り幾つになったら補充すべきなのか」「以前、うっかり手伝ったところ、駄目出しをされてこころが頽れた」「平日は激務なので、せめて土曜の11時までは泥のように眠りたい」などと、様々な反響が男性の側からも寄せられた、ようだ。

 

 「トイレットペーパーやペットボトル飲料(かさばるものや重いもの)は、お店の配達にお願いするでしょう?」

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 これは、わたしもそう思ったけれど、とりあえずいまは忘れる。

 

 はたして書く必要があるかどうか心許ないが、わたしの個人的状況を少しだけ述べると、わたしは、自宅で細々と居職を続ける女であり、つれあいは外で働いている。相対的に稼ぎが少なく、そのかわり平日の昼間に時間の余裕があるので、わたしが日常の煮炊きに掃除洗濯の大部分を担当している。もっとも、稼ぎと時間について現在とはずいぶん違った時期もやはり家事の大部分を担当していたことは変わりないけど。

 

 つれあいが昭和年間真ん中の生まれで、個人の覚悟と努力でどれだけ励んでも生育環境でめいっぱい浴びせられた男尊女卑の胞子を未だに振り払いきれていないのと同様、わたしも、九州中部の、実際は女が強いようにみえて男だってなかなか未だにぎゅうぎゅう抑圧的な風土の培養液で育てられてきてひどいものた。だから、かえってお互いに、従前の自分の習慣と異なることを強制されることに、ことに、配偶者にそれをされることに、相当程度、つよい反撥を覚えることになる。

 

 さて、出典は示せるが、あえてぼかすことにする成人女性向けの漫画作品で、同棲を始めたカップルの女性が相手の男性に、靴下を洗濯に出すときは、爪先まで裏返して云々と解き、『最初が肝心。誉めて伸ばす。』とあった。その女性も、作者(女性)も、わたしよりは年上のようだ。ところで、宅の場合、たとえ何度いってもそのようにはならない。わざといわれた通りにしないのかそれとも忘れてしまうのかは場合によって異なるのだろうが、ともかくけっしていったようにはならない。なかなか直らないことを根気よく何遍でもいってきかせて「誉めて伸ば」せるのは、家のなかの綱引きで女のほうが強いというのもあるだろうし、男が女のいうことを聞く素地が整っているというのも考えられる。とにかく、宅では、そういうことは起こらない。

 

 宅では、同じことを2回以上、相手に対して要望するのは、よほどの場合を除いてありえない。1回云って駄目ならば、再度云っても無駄だと。このあたりで、政治力学的な思考が湧いて出たのかもしれない。なにしろ何度も繰り返しことの必要性を説いて相手のあたまの中を変えるべくじたばたするというのは仕事の現場で厭になるほどせざるを得ないことなので、その分、家の中では、ねごもごねもしない。ひなたのねこのようにのんびりしたふりをしてたのしくくらす。その大前提として、病み上がりのわたしが、稼ぎが少ない代わりに余分の時間をもち、世間でイメージされる「専業主婦」以上に、ふわふわ浮いて暮らしていることがある。来し方行く末の不安定さはともかく、こんな社会の余剰人員的ありかた、われながらどうかしてる。

 

 ともあれ、そういう者からみた「VERY」の広告は、いっそ切実だ。

 

 誰しも、目を三角にして、「わたしが掃除機をかけ始めたらせめて邪魔にならないところに移動して。」「着替えた衣服はリビングに脱ぎっぱなしにしないで自分でランドリーに持っていって。」「お昼ごはんを作るのはいいけれど、台所の後片付けまで済ませてほしい。」などとは、言いたくない。「察し」てくれれば楽だけど、ことばにせずにすべての意向が通じるとまではまさか思わない。ただし、「察する」よりも、習慣として、日常的な掃除が始まったら自然に協力し、脱いだ衣服はもとより自分で片付け、得意の海鮮焼きそばを調理して平らげたあとは魚貝のはらわたなども新聞紙できちんと包んで生ごみとして処理してシンクもきれいにしてくれればいい、すごくいい。

 

 でも、現実は、そううまくは運ばない。掃除機は迷惑がられ、洗濯されるべき衣類はしばらく放置され、台所のあちこちはべたべたしたまま。事態がどうにか動いたとしても、夫の不承不承の気分を感じ取って、VERYな妻の柳眉も平かなままではいられず、上機嫌でいられる日ばかりではない。ところで、「ありがとうのことばよりもトイレットペーパーを買ってくる行動」が示すのは、「お互いに感謝し合いつつ、家の中の雑事をスマートに片付けて、機嫌よく暮らしていきたい」というささやかな希望だったのではないか。「ことば」ではなく「行動」、ではなくて、「ことば」プラス「行動」。糾弾や晒し挙げではなく、歩み寄り。はじめからけんかがしたくてカップルになる人たちはいない。

 

 宅のような昭和年間仕様の中年世帯にはいまさら無理でも、若い世代なら試行錯誤を繰り返してでも、きちんと望むように幸せになってくれると信じている。

 

 期待しています。

 

 とはいえ、わたしの基本スタンスは、以下のツイートの通りです。