ぴょん記

こつこつ憶える

互換可能な誰かではなく

 デジタル・ネイティブを名乗ることはできなくても、旧石器時代からのネットワーカーとして、ネットへの接続時間数だけは稼いできた。はじめは、IDと属性が一致したユーザーたちとオンラインでもオフラインでも顔を合わせ交流していたが、そのうち、インターネットが普及して繋がりが希薄化していった。世紀がかわって、はてなを利用するようになったが、それほど手広くネットの中で交際を広めようという意欲もなく、ごくごく地味に、とはいえ、顕名で(実名で、という意味ではない。)ブログやツィッターを続けてきた。

 

 でも、自分にとって、誰かとほかの誰かがネット上で互換可能と考えたことはついぞなく、むしろ強すぎるほどに知り合ったユーザーさんの個性を意識しておつきあいしてきた。もっとも、それが現在のネットの風潮には合わないものであることも薄々は気づいており、わたし自身どこかで、ネットでともだちを見つけたいという欲求から自分を自由をすべく、理想と現実との間で折り合いをつけないといけないとは思う。この場合の折り合いとは、つまり、自分は相手を好きでも相手は自分が嫌いという状況をすんなり受容する大人らしさを身につけるということ。愛されていないことを自覚するのは愉快なものではないが、ときとして経るべき重要な過程である。

 

 それはともかく。健康状態や暮らし向き、もともとの性格などの幾つかの要素の結果として、わたしは、目下、かなり閉ざされた生活を送っている。少し前には生命自体の存続が危ぶまれていたわけだから、上をみたらきりがないとしても、生活自体には不満はない。もっと体力を蓄えて、経済的にも向上したいとは望むけれども、無理をして体調を乱し、余計な医療費が掛かって家計を圧迫するのは避けたい。

 

 それなのに、昨日は、そのネットの内外の人間の互換性の問題を考えて、朝から気分がすごく悪くなってしまった。思っていることを紙に書き出したら、その紙は、それこそ「悪性格の立証」にうってつけだっただろう。考えているうちにそれにつれて身体の具合もどんどんひどくなって、とうとう氷枕のお世話になった。フルサイズのゴム引き氷枕で余計な電気信号が飛び交う部位を冷やしながら涙目になって、どうして今日に限ってこんなにひどいことになったのか思い返してみた。たしかに、先週は心労が重なることが起こって、夜の眠りも浅かった。だからといって、自分の頭で考えることで自分の身体がやられるというのは、まるで自己免疫のあれとフラクタル(というかパラレルというか)でまったくうまくない。