ぴょん記

こつこつ憶える

愛人

 
 「公家の姫が御中臈になることはあっても、大名の娘が徳川将軍家の側室に上がることはついぞなかった。その理由を1500語程度でリポートせよ。」
 日本近世史の基礎ゼミの課題を前に、ミカはため息をつく。「姫」と「娘」、「なる」と「上がる」。問題文の中に、軽いヒントが隠されていたのに、と、基礎ゼミの冒頭で薄く笑う担当講師の表情が目に浮かぶようだ。一旦2000語程度で書き上げて、そこから600語近く削って、日曜午後の半日寝かせて見直して送信すれば月曜正午の締切には余裕で間に合う、はず。
 レポートを寝かせておく半日の間、ミカには先約があった。小樽市のマリーナに停泊中のヤマモトのヨットに乗って、短時間のクルージングを彼と楽しむというデートの約束だった。札幌市からやってくるヤマモトとは、現地で待ち合わせることになっていた。
 ところで、ミカが現在パソコンに向かっている国際大学都市05は、かつて茨城県つくば市と呼ばれた街だが、そこから小樽市までの距離は、問題ではない。ヤマモトと「会う」ためにミカが向かうのは、05からノヴァ千歳に1週間に3便だけ出ている飛行機の発着場ではなく、駅の裏手にある雑居ビルの一室だ。平成の半ばごろに建てられた、現在の耐震基準をぎりぎり満たしているかどうかすらあやしい古い建物に入ってすぐのところにその事務所はある。
 日曜の未明まで日本近世史のレポートに取り組み、短い仮眠をとったあとシャワーを浴びて、ミカはその事務所まで自転車で出かけた。出かける前にかろうじて口にできたのは、柑橘系のフレーバーのしみたカロリーブロックと蒸留水だけだったが、それでもないよりましだった。事務所の奥のブースで施されるセッションが終わると、当然のことながら、いつも頭の芯が痺れるように感じられて、ほんとうは自転車で下宿に帰るのも怖いくらいぐったりとなってしまう。
 事務所の入口のカウンタにいる顔色の悪い男が入ってきたミカをみて顎をしゃくる。ミカも無言で頷く。ふつうのIDは、ここでは出さない。この雑居ビルでは、この仕事を始めたとき、または、仕事上での名前を変えたときに用意した、偽物のIDを使う。さしずめ源氏名のようなものよ、とミカをこの仕事に誘い込んだユイはかつて説明した。夜の接客業に携わる女性が本来の名前ではなく、商売上、別の名を用いることによって、ビジネスとプライベートを区切ろうとしたのと、同じ、と。ユイとしては、未知の仕事を前にして気が引けているミカをリラックスさせようとして持ち出したたとえだったのだろうが、源氏名ということばを知らなかったミカはかえって混乱しただけだった。
 カウンタの前を通り過ぎて、薄暗い奥のブースに入り、ミカは、寝椅子の上にうつ伏せになる。カウンタの顔色の悪い男がミカの頚に壁から延びたケーブルに繋がる細い首輪を装着する。まるで飼い犬のような、と、首輪を止められるとき、いつもミカは思うのだが、それとほとんど同時に意識が遠くなる。ミカの「心」は、その身体をブースの中に置き去りにしたまま、ケーブルを伝ってはるかかなたへ旅立っていく。
 
 ヤマモトは、札幌に本店を置く貿易会社の経営者だ。はじめは信用金庫の職員だったのだが、大学時代に本格的に始めたヨットの趣味が嵩じて、ヨットにはなにしろ金が掛かるので、より多くの収入が得られる貿易の仕事へ転職したという。北海道の農産物をいい値段で中東の金持ちへ直送するヤマモトのビジネスはほどほどうまく運んで、札幌の本店、帯広とノヴァ千歳の支店の従業員らに死なない程度の給料を払い、ヨットに金を掛け、同い年の妻と中3の双子の息子を養い、さらに余った金でミカをパートタイムの愛人に雇う程度の儲けを生んでいた。
「あんまり沖に出ると、またこないだみたいに、ミカ、接続切れちまうんだろ?」
 頃合いの風を受けて、小樽築港のハーバーを出て帆走を始めたヨットの中でヤマモトはいう。
「接続が切れるだけでどうにかなるわけじゃないので黙ってしまっても気にしないで下さい。」
「とかいっても、再起動するとき、センターに電話するのってけっこう気まずいぞ。まるでこっちが無茶したみたいに思われてないかって。」
 ミカが、いや、正確には、ミカの生体反応の一部を転送したシンセットが薄く笑う。ヤマモトは、もっぱら性能を高めることに金を惜しまなかった速いヨットに、これまた小さめの高級外車のゆうに2倍はする女性型シンセットを載せて週末のクルージングを楽しむような粋狂な男だ。ミカのシンセットは、平日は、札幌近郊のメンテナンスセンターで厳重に保管されており、ヤマモトの指示に従って小樽の港や富良野の別荘へ運ばれることになっている。「ミカ」には、すでにヤマモトの妻子よりも多くの金が投じられており、その額は、ヨットの掛かりに迫るいきおいだった。
 いったい、なぜ。ミカは、時折考える。生身の女を愛人にもつほうがよっぽど手軽だ。ふつうの人間の女性なら、ヨットが沖合に出たくらいでは力なく頽れて動かなくなったりしない。ときにはわがままを言うかもしれないが、その分、温かい手のひらで頬を挟み込んで励ましてくれることがあるかもしれない。そして、きっと「ミカ」より安上がりなのに。
 波濤がきらめいて、でも、ミカには、にわかにいまの季節が分からなくなる。
 
 
 いったい、なぜ。由衣子は、しつこく考える。生身であれ機械であれ、愛人の女になるのではなく、女を愛人にするほうがずっと自然だ。ふつうにきれいな女を愛人にして仮想世界で永遠に遊ぶというのなら理解もできる。由衣子の祖父である耀蔵は、貧寒の身から志を抱いてのし上がり、一代で巨万の富を築いた。そして、その肉体の寿命が尽きたとき、耀蔵は、ひそかに、自分の意識を量子化してプログラムに紛れ込ませ、いわば終わらない夏休みを自分に与えることにした。それが、今回、由衣子が財団の使途不明金を調査するうちに発見した、この「ミカ・プロジェクト」の正体だった。その中で、祖父は、女子大生ミカとして、シンセットという一種のロボットであるデバイスに意識を転送して遠隔地の中年男と愛人契約を結ぶ人生を送っていた。もう、数十年も。
 祖父の生前、「ミカ・プロジェクト」の設定をともに考えたという放送作家のノートにはその理由らしいものはほとんど書かれていなかった。ただ、耀蔵が、どちらかといえばアニマが強いことを自覚していたことと、歳をとるごとに潔癖症が強くなり、しまいには孫の由衣子たちにすら気軽に触れられなくなったことは、いずれ明らかにされるかもしれない。