ぴょん記

こつこつ憶える

ゼロ・ダーク・サーティ

 2008年の夏だったろうか、アメリカ合衆国政府がテロ抑止のため国の内外で行っていた、身柄拘束と移送を伴う捜査について非難が集まった結果、大幅な路線転換を余儀なくされたという内容の書籍(日本語版)を読んだ。たとえば、ヨーロッパのある都市で、夜のうちに誰かが姿を消す。早い話、誘拐されるのだ。その人物は合衆国政府の費用で運用されるガルフストリームに載せられて中東のある町の刑務所に収監される。そこで大音響のレゲエ音楽で不眠にさせられたり、水責めにされたり、とにかく訊問に対する満足のゆく答えを口にするまでぎりぎりと締め上げられる。……でもそういうのはやっぱりよくないからアメリカ政府としてはやめさせます、と大統領が約束したために、この映画の主人公「マヤ」をはじめとする、現地のチームのメンバーは窮地に立たされる。

 拷問は、人権保障上、たしかに「やっぱりよくない」のである。しかし、それを禁じられて、世界中にネットワークをもつ組織を相手にテロの予防を行うとなると、限られたヒト、カネ、時間の枠内じゃどうしても無理がある。「マヤ」は、もともと特殊な能力をもっているといってもいいスペシャリストだったのだけど、ある出来事をきっかけに、拷問を禁じられた組織を率いて、テロ組織の首魁の居所を捜索することに自らの全てを投入していく。そして、殺人もまた、「やっぱりよくない」ことなのだけど、それさえもいわば「しかたがない」と俯かざるを得ない結果が導き出された、と、たとえば100年後の歴史家ならばいうのだろうか。