ぴょん記

こつこつ憶える

いじわるというもの

 ずっと以前にともだちからされたいじわるを思い出した。ぼーっと頭の中を探れば、そりゃ幾つでも出てくるけど、今回は2件。『そんなことを言ったりしたりするのは、「ともだち」じゃないよ。』と思われるかもしれないけれど、少なくともこちらはともだちだと思っていたし、つきあいをやめたいまもわたしという案件に係る関係者を仕分けすれば、そのひとたちはともだちである。まず、1件目。あるお世話をすることになって毎日きまった時刻にうちにきていた近所のかなり年上のともだちがテーブルの上にあった比較的高価で美麗な漫画本を貸してほしいというのでどうぞと言った。上中下の3冊。2週間後、ありがとうとそれらは返されてきたけれど、ところどころ、半ば乾燥した汚物が挟まれていて触るのも生物学的にどうかと思ったので迷うことなく捨てた。その数ヶ月前、ふたりきりでお茶を飲んでいるときに、立て板に水の調子で暴言を吐かれていたこともあり、こちらとしては、近所の友人として誠心誠意つとめていているつもりでも、それさえ、やっぱり鼻につくわなあと諦め気分。暴言も汚損も、あとで謝ることもせず、なにもなかったようにけろっとしていた。わたしもね、何を言われてもされても、近所ということもあるので、咎めなかった。何年かして引っ越していって、遊びにきてねえと葉書も届いたけど、返事は出さなかった。それから、2件目。こんどは、こちらがいろいろお世話になった少し年上のともだちで、ご恩に報いるために、ときには仕事を何日も休んでお手伝いに上がるなどけっこう尽くしたつもりだったが、まったく足りないということでおしかりのことばを頂戴した。優れたところも多々あり、たとえばわたしの魔法の及ぶ範囲が1アールだとしたら、彼女のは1平方キロメートルくらいだといえる能力差だった。だから、わたしのあらも目に付くし、それが能力不足ではなくただの横着にみえることもあったのだろう。ただ、本心からの怒りが95パーセントで、残りの5パーセントは、梅酒の瓶にいれた鼠かなにか小動物に餌や水や空気を与えられるのは自分だけという全能感、生殺与奪の権を握っているという感覚のような感じがして、それまでの恩義と思い出のために重ねて謝ったあとはわたしは身を引いた。/いじわるにどこまでもつきあう義務などどこにもないからだ(でも、ともだちとしておしゃべりしている間は、ほんとうにたのしかったよ。)。

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 崎陽軒のしろごはんのほうのシュウマイ弁当もおいしいですよね。