ぴょん記

こつこつ憶える

闇に漂うふるさとの灯り

 しゃがれ声の老人の、「はい、出発。」という、じつに曖昧な合図にしたがって、ほぼ真っ暗な駅前のロータリーからまずは商店街の外れのスーパーマーケットの駐車場を目指して、思い思いの運動着、背中に手書きのゼッケンをつけた中高年の男女がぞろぞろと走り出した。いまは、ほぼ真夜中。道路脇のところどころに置かれた、竹竿の先に括り付けられた裸電球を雨よけで覆っただけのランタンが彼らの背中を薄く照らす。駅前からその駐車場まで、約800メートル。駅前のロータリーが集合地点であり、スーパーマーケットの駐車場が「マラソン」の出発地点だ。カーディガンのポケットに両手を突っ込みながら、わたしは、集合地点と出発地点が異なるのにはなにか理由があるのだろうかとぼんやり考えた。いまではこの町を離れて東京の外れで暮らすわたしは「マラソン」に参加するはずもなく、まったく見覚えのない走者たちを黙って見送った。駅前には、コカコーラの自動販売機がひとつ置かれたきりで、コンビニエンスストアなど見当たらない。だからというわけでもないが、深い考えなどなく、走者たちを追うように、わたしも駅のすぐ前を流れる川に架けられた橋を渡ろうとした。するとすぐそばから、「買ってくれよう。」「ねえ、買ってよう。」と声がする。橋の欄干に網が掛けられ、そこに襟の擦り切れたネルの寝間着を着た、目の大きなこどもたちが引っかかっていて、懐に詰めている赤い果実をこちらに差し出す。あんたたち危ないじゃない、と言おうとして気がついた。かれらは、人間のこどもじゃない。便宜上、人間のこどもに似せてはいるけれども、川魚の一種。ニジマスやヤマメ、エノハの類い。橋の欄干から上に上がってはいけないさだめの生き物たちだから、こういうふうに欄干に身体を引っかけて商売をしている。「ひとつぐらい買ってくれよう。」ひときわ柄の大きい川魚がわたしに迫る。わたしは、聞こえないふりをして橋を渡りきってしまおうとする。そのとき、するりと一匹の川魚が10メートル下の川に落ちようとした。「おお、危ない。」いつのまにかわたしの横に立っていた男がぐんと腕を伸ばし、川魚のネルの寝間着の襟首を掴んで網の上に戻してやった。助けられた川魚はとくに礼もいわずに平気な顔をしている。「いくらこいつらでも真下に落ちたら怪我するからね。」と、川魚を助けた男はわたしに聞かせるように言った。わたしまで冷淡に無視するのは気の毒なので、わたしはしかたなく二回ほど分かったというつもりで頷いておいた。そのとき、遠いスーパーマーケットの駐車場で、なんどか、うおおおと雄叫びが上がった。さきほどこの橋を通り過ぎていった走者たちがスタートラインに就いたのだろう。「マラソン」は、真っ暗な時刻に始まり、夜が白む前に終わらねばならない。その「マラソン」の夜だけは、川魚も姿を整えて、人間相手に商売をすることが許される。でも、いったいどうしてわたしは、この「マラソン」の夜に、ひとりでふるさとの町をうろついているのだろう。ふとにわかに息苦しさを覚えた。ふりかえると、さきほどの男は消えていた。それどころか、橋も川もロータリーも、もちろん川魚たちも跡形もない。そしてわたしに一番近い、急ごしらえのランタンがしずかに色を失った。