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ぴょん記

こつこつ憶える

原動機付き車椅子の老婦人とわがままエレベータ

 夜中にすぐ仕事に出掛けなければならなくなって、革のポーチに幾らかのお金とKitacaが入ったのと、よく使い込んだ気に入りのフェイスタオル3枚を掴んで都バスに飛び乗った。東京在住のわたしがなぜKitacaを使うのかというと単なる趣味で、学生時代に使っていた記名式のPasmoは2011年3月の大地震で崩れた大量の書籍のどこかに挟み込まれてパスケースごと行方不明になり、その後に記名式にしたSuicaは、たぶん机のいちばん上の抽斗にしまい込まれているだろう。ともかく早く現地に着いたほうがよいので、バスが出るのをいまかいまかと待っていたが、運転手が乗降口から車内に上半身を入れてきた人と込み入った話をしているらしく、いつまで経ってもバスは出ない。そのうち、仕事に行かなければならないというのはわたしの思い込みであろうと心づき、そうなると深夜に無闇に外でふらふらしているべきではないから、家に帰ろうと座席を立った。

 メゾンの中央エントランスからエレベータに乗って上にあがり、一旦は直接帰宅しようとしたのだが、いつのまにかもう朝になっており、勤め先に出掛けようという人もちらほらいたので、下のコンビニエンスストアで切らしていたコーヒーのペーパーフィルターを買って上がろうという気になった。それでまた下へさがる。途中階でカゴは停まり、わたしとは面識はないがこのメゾンの住人らしい同年輩の男性が老婦人の座った車椅子を押して、「大丈夫かなあひとりで。……じゃあ、ぼく、論文の〆切があるから。」といって老婦人の返事も待たずにその階に残った。カゴの扉も閉まって、わたしは老婦人に会釈をしたが、先方は知らん顔で、こういうのはじつにしばしば起こることなので、別に腹も立たない。挨拶を無視されるのは、その挨拶が先方に気付かれないときか、さもなくば、先方が挨拶に気がついても敢えて返礼しないと決めた場合なので、そのあとの対応を思い煩う必要もない。と、突然、老婦人が胸を押さえて背を丸め苦しみ始めた。そのとき、下降するハコの回数表示は5階で、管理人室のある1階までもうすぐだ。「……だいじょうぶですか?」と、自分の口から滑り出たことばは、じつに冷ややかで、まさしく『お義理に』出てきたものだった。しかもそのうえ、さっきわたしが会釈したとき、この年老いた奥さんが気持ちよく挨拶し返してくれたら、わたしはもう少し親身にお声掛けしていたかしらなどと考えていたのだ。わたしはたしかに冷たいところがある、だけど、こういう心性をもってプシコパトゥ扱いされてはたまらないでしょ、とも。

 返事をせずに胸を押さえて身を丸くしている老婦人の大きめの原動機付き車椅子がエレベータのハコの出口の側にあったので、わたしはそれとハコの壁との隙間をできるだけ身を薄くしてかろうじて通り抜けた。そして、ややためらったのち、ロックの有無を確認せずに、動かしますよ、と呟いて、車椅子を引き、ともかくそれを老婦人ごとハコから出した。車椅子が動いたとき、老婦人はびくっと背を大きく震わせたが、あいかわらず無言だった。

 エレベータの扉から離れた壁際に車椅子を移動させてロック用らしきペダルを踏んで、わたしは管理人室を覗いた。このメゾンは、マンションとかアパートメントとか○○住宅とか、その住人が入居したときについていた名称で口々にばらばらに呼ばれているけれども、現在の正式な名称は、「マ・メゾン」という。とにかく住人の数が多いので、管理人もたくさんいる。常時5人くらいは事務所に詰めているし、その他にも請願巡査のボックスが別に設けられている。ちょうど40歳くらいの管理人が窓口にいたので、わたしは、あの奥さんがエレベータの中で急に苦しみ始めて、と、彼女の車椅子を据えた壁のほうを示した。と、ふしぎなことに、そこには誰も/なにもなかった。

 あの奥さんとはどなたのことです?と、管理人は不審そうに云った。寝ぼけて夢でもみたんじゃないですかというトーンだった。と、中央エントランスの自動ドアのほうをみると、ごく低速ながら、老婦人は車椅子を動かして外へ出て行こうとしている。どうみてもさきほどまで苦しんでいたようには見えない。わたしはことばを失って、管理人のほうを顧み、あらお忙しいところ失礼しました、と詫びた。さっきまであの「ばあさん」が実に苦しそうに身を捩っていたなどといっても話が面倒になるだけである。ことの次第はしらないが、関わり合いになってはいけないという匂いだけは強く漂っている。はいはい、と管理人はまたもとの作業に戻った。

 すっかり混乱してコンビニエンスストアに行く気を失ったので、わたしは、すぐ乗れるエレベータのハコに乗った。5階おきに停止するハコで、6、11、16……と停まるので、27階のわたしの部屋なら、26階でおりて1階分、階段室をあがれば済む。部屋に戻ったら、家族の朝のコーヒーはインスタントにしてもちろんわたしは飲まず、みんなを送り出したら遮光カーテンを閉め回して少なくとも午前中は寝て過ごそう、などと考えていた。

 と、16階でハコは停まった。そして、どう考えても不条理なことに、さきほど中央エントランスの自動ドア付近を原動機付き車椅子で移動していたあの老婦人が乗り込んできたのだ。5階おきのエレベータに乗ったはずのわたしよりも先回りして彼女が「そこ」にいるのはいかにも不条理だ。こういうのは考えちゃいけない。逃げるに如くはなし。でも、そうなると逆に人間は理由を考えずにはいられない。あ、と、喉の奥で小さく叫んで、わたしは、閉まりかかったドア目掛けて身体を投げようとした。だが、その車椅子は当然のことながら相変わらず大きめであったので、咄嗟の動作で身を薄くしてすり抜けることは難しかった。「開」ボタンにさえ手を伸ばすことはできず、ハコは16階を離れ、上昇を開始した。わたしは、今回は、老婦人と一切の直接のコンタクトをもたないように、とにかく身を薄くして、ハコの出口側にたどり着いた。そして、21階の階数ボタンを押し、次の停止階でなんとかハコをおりた。おりたあとで、老婦人が停止階のボタンを押していなかったことを思い出した。

 さて、21階から27階は、けっこう遠い。階段室で頑張るか、それとも下から来る別のハコに乗るか。21階から上を通過するエレベータには、わたしが下から乗ってきた5階おきのエレベータのほかに、各階止まりと、それから、「おまかせ」というエレベータがあった。これは、高層階の部屋の引っ越しや大規模なメンテナンスの場合に用いられることもある大型のハコで、そういう特別な用途で占有されていない場合は誰でも使えるけれども、なんと1乗降当たり100円かかる。その代わり、すごく急いでいるときなどは途中階をすっ飛ばして上がったり下ったりできるので、住人たちの間では、「わがままエレベータ」などと呼ばれていた。

 階段室は大変そうなのでエレベータで帰ろうとわたしは思った。でも、21階から27階まで上がるのに100円払うのはさすがにもったいない。ここで各階止まりを待ってそれを使うのが穏当だし、それがなにかの事情で混んでいて乗られなくても、5階おきのが下に戻って上がってくるまでには、もうあの老婦人と原動機付き車椅子はさすがに消えているだろうと。だけど、今朝は、いや、ゆうべから変なことばかりが続く。深夜の仕事で呼び出されバスに乗ったはいいがバスは発車せず仕事がないのを思い出して家に帰ればエレベータで妙なことがいくつも起こる。これはきっと、無視されることに対するわたしの苦手な気持ち、相手とうわべだけでも良好な関係を取り結ぶことに関する強迫観念が見せている夢なんだなあと思った瞬間、するっとからだを縛っていた縄がほどけるように暗い寝床で目が覚めた。

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