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ぴょん記

まじめにはたらく

因幡のおつかい

 塗りの筥に清げに薄様など敷き散らし、その上に搗きたての餅を手早く丸めたものをわたしの上司である筑紫どのは厨女に命じて用意させた。本来ならばこの月もわたしが伺うべきところじゃが、お方さまが産み月に入られ、お側を離れることは憚られるゆえ、因幡おまえ代わりに行っておくれと昨日の夜、筑紫どのはわたしに告げた。あい、と頷きながら、わたしはその餅をもっていく先のことを思い返していた。うちのお方さまが、前のご結婚で儲けられたお姫さまのいらっしゃるお屋敷。もっといえば、お姫さまと、そのお父上であるうちのお方さまの前の背の君、それから、お姫さまとはお腹違いのずいぶん大きな二三の兄君たちがお住まいの三条のお屋敷。筑紫どのは、もとの勤め先であったそのお屋敷に、ひと月とあけずに餅や衣や絵草紙を持参してお姫さまにお目に掛かる。それは、お姫さまが袴着を済まされたばかりのころ、半ば掠われるようにしてこちらの一条の大臣のお宅へ連れてこられたお方さまのご意向を酌むというよりは、もう筑紫どのがご自分の裁量で行っているお姫さまへの仕送りなのだ。

「餅を、のう、お届けしたからというて、はやばやと帰参するには及ばぬ。因幡よ、おまえ、絵など描いてご覧に入れ、お姫さまをお慰めしておくれ。」

「絵、でございますか。」

 たしかに、わたしはすこしばかり絵を描く。ながの年月、名を変えながら女房としていろんなお屋敷を渡り歩いていくうちに、手すさびにふみも綴れば絵も描くようになった。物心ついたころには他人の中にいて、欲があるのだかないのだか、とくに喰うに困らず、和漢の才、音曲、そして絵の能力はいずれもないよりはあったほうがいいという連中に揉まれて育ったのだから、絵だって少なくとも人並みの半分のその半分ぐらいの出来であったといってもいいすぎではないだろう。

「はあ。では、一応、仕度はして参りますが、はあ。」

「遅くなったら、なにも無理に帰ってこなくてもよい。こちらに文をしたためておいた。あちらにいる柊刀自というのは、おまえも存じているように、わたしの母じゃからな。泊まっていくように言われたら遠慮することはないのだよ。」

「あい、心得ましてございます。」

 殊勝げに頭を下げる。宮仕えは上司に従順であることが肝要。こいつはまあまあ「使える」と上司に認められれば、朋輩の当たりも滅多なことではそれほどきつくはならない。

 お方さまに一言ご挨拶して出掛けようと思ったが、それには及ばぬと筑紫どのはいう。お方さまは、お産を控えられていまは休養が肝腎の時期じゃから、お姫さまのことはまたゆっくりお伝えすればよいと。

 そういうわけで、一旦、局に戻って絵の道具を筺に詰め、用意された網代に餅の筥を抱いた女童のフキと一緒に乗った。三条のお屋敷までは郎従がふたりばかり網代のそばを守ってくれる。春というにはまだずんと底冷えのする頃のことで、着重ねたわたしですら胴震いがするほどなのに、牛飼童のむき出しの細い脛などいっそ痛々しいほどに寒そうである。

因幡さま、こちらの筥、まだほかほかしております。」

 女童のフキは、余熱の伝わる餅の筥の包みを嬉しそうに抱えている。よかったの、と鷹揚にほほえみながら、わたしはにわかに憂鬱な気分になる。フキは、聡い子ではあるがまだほんの子どもだから、お方さまとこれからお訪ねするお姫さまとの入り組んだ関係をきちんと理解しているとは思えない。大人になったとき、おふたりが一緒に暮らせない理由を知って、はたしてフキはなにをどう考えるだろうか。上流の貴族なんてそんなものだと、わたしのようなすれっからしの感想をもたなければいいのだけど。

 網代が三条のお屋敷に着いたとき、わたしは筑紫どののことばを思い返して、郎従たちに空の車と一緒に一条の大臣の家に戻るようにいった。紙に包んだ銭を渡して、あとで酒でも烹ておくれというと寒さに強張っていた彼らの額が一瞬ゆるんだ。

 車寄せに出てきた青女房に案内を乞うまでもなく、すでに知らせを受けていたのか、柊刀自が迎えてくれた。寒かったじゃろう、おお、餅か、ありがたい、と口早にいうのは、わたしがせんに何回か筑紫どのと一緒にこのお屋敷を訪れたことがあり、お姫さまにお目もじして、柊刀自ともとっくり夜咄をした仲であるからだった。

 三条のお屋敷は、とても広くてしっかりした造りではあるが、いつもしんとしている。老齢のため、出仕をやめた、さきの大納言と、幼い姫が主人の家である。この殿と、前の前の奥方との間に生まれた兄君たちは、曹司こそあれ、ふだんはそれぞれの定まる妻のもとで暮らしている。それに比べれば、わたしのお仕えする一条の大臣のお宅は、奥さまだけでおふたり、それぞれにお仕えする女房たちに、大臣にお仕えする女房たち、大勢の郎従に朝廷からお預かりする供奉の官人、そして夜討ち朝駆けのお客人たち。うたげの被けものとして、この美しい人をいただいてまいりましょう、と、いったいどこの光る君かとみやこ中の女の眉を動かしたあの出来事から何年か、大臣がうちのお方さまを寵することにはかわりないが、でも、お屋敷にはいつのまにかさる宮様の脇腹のお姫さまが、お方さまと同格の奥さまとして住まわれるようになっていた。世の中はなかなかに油断がならない。とにかく、一条の大臣のお屋敷には、うわべの秩序とは別に、こちらの身の毛をすべて逆立てさせるような狂躁がある。

「姫さま、お母上からおつかいがまいりましたよ。」

 このお屋敷では、東の対のよい場所に、幼い姫さまの御座所をしつらえてある。几帳を引き回して炭櫃を適当に配し、ほのかによい香りもする居室には、親身になって幼い人の成長を見守ろうというやさしさが感じられる。この柊刀自は、お方さまの乳母でこそないが、大納言どのへのお輿入れ前から娘の筑紫どのともどもお方さまにお仕えしたそうで、いまはお姫さまをこのお屋敷から煙のように消え失せたお方さまのお身代わりとして大切にお守りしているのだ。

 おかみおそろいあそばして云々に始まる定型のご挨拶は、まだこの時代にはない。お寒うございますね、失礼いたします、因幡でございます、こちらは女童のフキでございます、から始まる実に平凡な挨拶をわたしは几帳の蔭にほのみえる小さな人に向かって述べてご機嫌を伺った。もし、ご機嫌がうるわしうなかった場合には、早々に別の間に下がらねばならない。でも、ここのお姫さまに限っては、おむずがりになるというのはめったにないこと。げんに、ほら、もう几帳からお顔を覗かせて、わたしとフキの顔を交互に眺めていらっしゃる。

「あら、因幡。また来てくれたの。」

「はい。」

「うれしい。ふふふ、ゆっくりしていけるのでしょう。」

「お許しいただければ、はい。」

 わたしはちらりと柊刀自のほうを見た。むすめの筑紫どのからの文にすでに目を通していた刀自は、ぜひ泊まっておいきなさい、と言った。ほかの女房たちも口々にそうじゃそうじゃこないに寒いのじゃから酒でも烹てぜひごゆっくりなどと勝手なことをいう。

因幡の御も、どうぞお楽になさって。」

 勧められてわたしも秋のはじめから醸したという、甘い果実の酒を口にした。舌に触れたばかりの感じは、甘さと酸い味が相半ばするのだが、これがあとになると体中を蕩かすように効いてくる。幼いお姫さまにお仕えしているというのに、ここの屋敷の女房たちはなかなかすごいものを日常的に飲んでいるようだ。それも無理もないかとわたしは思う。致仕の大納言である御あるじと、おいとけなのお姫さまにお仕えし、客人も少なければよそのお宅におつかいに出る機会も滅多にない静かな明け暮れで、気が塞ぐようなときは、盃に一杯二杯の強い酒などあおって少々頭の中を賑やかにしなければいたたまれないのだろう。ほとんどが盛りを過ぎた女房たちである。通う男がいるにしても、それぞれに落ち着いた仲らいなのであろう。

 おつかいにきた使用人にすぎないのに、わたしはまるでお姫さまの同格のお友達のようにもてなされた。お姫さまに需められれば、催馬楽めいたものも口ずさみ、また、持参した道具で、お姫さまご所望の、鶏や馬や牛などを描いた。わたしの絵は、軽く彩色を施すので、描いているはなから見ていて面白いのだとよくいわれる。仕上がりの出来のほうはそれほどでもないが、座が賑わうならばそれでよい。

「まだ起きていてもよいか。柊、もうしばらく起きていたい。」

 夜になってしばらくしたころ、お姫さまが柊刀自に懸命にせがむ。袴着を済ませたとはいえ、まだまだほんとうに小さくておいでなので、夜更かしはお身体によろしくない。わたしが持参した餅を軽く炙って甘葛の汁に浸したのを召しあがったのでお腹がいっぱいになって、ときどきすうっと眠ってしまいそうになるのを、小さな掌でお顔を何度もこすって、寝まいとしている姿をいかにもいじらしくお見上げする。

「あらあら困った。では、因幡が物語をして差し上げますからね、それを御帳台の中で臥してお聞きになれば宜しいのでは。」

 柊刀自がわたしに無断でお姫さまとお約束をする。そう言ってしまってから、わたしのほうをみて、笑顔で頷く。

 わたしたち女房は、主人の御前で眠る際も、それほど身支度をせずに横になる。朝になってまだ寝ている主人を起こさぬように、そろそろと自分の局に戻って身仕舞いをし直したり寝直したりするために移動するとき、お互いの剥げた化粧や寝崩れた装束にぎょっとしても改めて指摘することなどない。昼間きちんとしているからには、朝方だらしない姿をさらすのはしかたないことなのだ。しかたないことをお互い咎め立てしてもはじまらない。

「それなら寝る。柊、仕度を頼む。」

 と、素直にお姫さまが一旦席を立ったあと、古参の女房がフキどんはこちらでお預かりしますさかい、因幡さんはよかったらこれに着替えはって、と、寝衾と一緒に簡易な衣を出してくれた。おけわいはどないしましょと問われたので、では、お水の溜まるところへご案内をと頼んだ。一日呑んで食べて、お姫さまのお相手をしていたので、わたしの頬の白粉などあらかた吹き飛んでしまい、紅ももうほとんど残っていない。きれいな水で顔を洗いさえすればあとはもうそのままでもいいわいなあとわたしもかなり眠かった。少し離れたところで、お姫さまのお居間を下がった女房たちが、座を移して飲み直す気配がしている。わたしには、このあと、お姫さまにお話をしてすみやかに眠っていただくという一仕事が残っているけれども、もしわたしが先に寝てしまって、お姫さまのお目がらんらんと開いたままだったら刀自にしかられるかしら。

 わたしどもはいつもこちらで、と古参の女房が案内してくれた水屋は震え上がるほど寒かったけれども、土間に降りる必要もなく、下仕えの女が盥に湛えてくれた内井戸の水はほのかに温かく感じられるほどだった。その水でぴしゃぴしゃと何度か頬と額を濡らし、寝殿の奥深くにおわしてけっして姿をみせないこのお屋敷のあるじの殿のことを思った。娘のところに、以前、妻であった女のもとからおつかいの者がきて、あまつさえ屋敷に泊まっていこうというのに、おそらくあるじの殿は、それをしらされてはいない。けっして愉快なはなしではないゆえに。憐れみをまぶした、幾分の侮りのために。その本来ならば招かれざる者であるわたしが、こうしてお姫さまの住まう対の屋で歓待されているのは、ひとえに、お姫さまを養育し、このお屋敷の奥向き一切を差配する柊刀自が、お方さまにお仕えする筑紫どのの母御であるからなのだ。お娘に仕える母と、母君をお支えする娘の結びつきがなければ、一条の大臣のお屋敷と、三条のこのお屋敷の間は、たちまち凍り付いてしまう。今回などは、お方さまがまもなく御産に臨まれるから、筑紫どのがおそばを離れるわけにはいかず、だからといってお姫さまとの通いを滞らせるのもいかがなものかというわけで、わたしが遣わされた。それほどまでに、柊刀自と筑紫どのにとって、このおつきあいは大切。そこまで考えて、麻布の手巾で顔の水気をとっていたわたしは、ではこのおつきあいは、お方さまとお姫さまにとってはどうなのだろうかと戸惑ってしまった。大切なお方と、いまはおたがいに恋しがってはいても、一条の大臣の北の方に納まってしまった母君と、三条のお屋敷で老いた殿と女房たちに囲まれてお育ちになるお姫さまは、これからもたぶんご一緒にお暮らしになることはない。もうずいぶんなお年だもの、柊刀自がお屋敷を退かれたりしたら、それをしおにこの行き来はいずれ絶えてしまうことだろう。お姫さまもいま少し御身大きくおなり遊ばせば、母君がけっして一条の大臣の権力に屈して御身を差し出されたわけではなく、世の仕組みよりももっと入り組んだご自身の意向でこのお屋敷の殿のもとを離れ、一条のお屋敷に移られた事実をお悟りになることだろう。わたしはそのとき、おふたりのお側に控えているかどうかはわからないけれど。

「もうし、因幡どの。姫さまがお待ちかねですよ。」

 遠慮がちに声が掛けられ、身仕舞いを済ませたわたしは、お姫さまが横たわる御帳台のある間に入った。そこですでに衾をかぶり、柊刀自を相手に眠気との果てしないたたかいを続けていたお姫さまは、わたしの姿を認めると、因幡はここね、と、わたしの横たわるべき隙間を指した。では宜しく頼む、と、柊刀自は大きなあくびをして去り、わたしは御帳台の中にお姫さまとふたりきりになった。

 姫は昏い昏い春の闇の中、これもまた大きなあくびをして、きょうはどうかおまえがむかしむかしの天竺にいたころのはなしをしておくれ、と呟くと、一瞬答えに詰まったわたしがなにか言う間もなく、軽いいびきをかいてお休みになってしまった。

 

少将滋幹の母 (新潮文庫)

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