ぴょん記

こつこつ憶える

いち漫画読みの似非社会学

 たとえば大きな駅のコンコースなどの公衆の面前で泣きじゃくる成人女性がいたとして、足を止めた通行人が遠巻きになって彼女のほうをみてひそひそお互いに囁き合っているという状況で、彼女の連れと思しき人物から、「見世物じゃないぞ!」という怒号が野次馬に向かって発せられることがある。そう、泣く、怒る、傷つく、そういう幸せでない状態は、往々にして、赤の他人の欲望を引き寄せることがある。あるいは、ある種の欲望は、他者の不幸に吸い付いていきやすいというべきか。

 ぶんか社の刊行物ではないけれど、「主婦の貧困」「性的に搾取される子ども」についての漫画の単行本をKindleで読んだ。いずれもいわゆる「実話に基づく」とされていたが、アサヒ・コムなどを読む限り、ほぼその通りであろうと思う。かわいそうな女こどもの話を、おもに女性が読む。読んで、そういう話もあることを知って、いざ身近に「被害者」が現れたり、以前からの知人が実は「被害者」だとわかったとき、さてどう振る舞うか。そのとき、レディース・コミックで得た知識は少しでも誰かの役に立つのか。

 予備知識をもつことは、少なくとも無知によって人を傷つけるのを避けるために有用だとはいまでも信じている。しかし、例の自主避難の小学生から「奢り」として、総額で百万円超を取り上げた同級生の話など聞くにつけ、ある程度事情がわかっていても、傷ついた人を労る者ばかりで社会が構成されているわけではないと感じる。むしろ、知ることによって、悪いことをしてしまうことさえある。

 とても刺戟のつよい漫画も読まないわけではないが(そして、それらの書名をこのブログに記載したことはない。)、それらの本は読むか読まないかを決めるのが自己責任に委ねられていることは実にわかりやすい。それにひきかえ、貧困や虐待にかかわるコミックや実録風リポートは、かえってごくごく細心の注意を払って接しなければ、まずまっさきに自分にとって害をなす。そして、それだけでなく、その害は自分の内部だけにとどまらず、じわじわと辺りを湿らせる。