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ぴょん記

こつこつ憶える

残り物も食べる

 今朝は諸事情により、4枚切トースト1枚に加え、マヨネーズで焼いた鶏卵L玉3個分の玉子焼きに豚大根の生姜煮1皿を朝から平らげた。玉子焼きの半分と豚大根は、残り物だ。

 

 以下、やや特殊な個人のはなし;

 つらつら思うに、わたしはたとえば目の前で自分にとって不快で利益を損なう行為をされたとしても少なくとも直ちには反応しないように自分を訓練してきた。人生のはじめの頃は、それでも自分もほぼ人並みには扱われるべきだと信じていたせいもあり、何事かが起こると、どうしてそんなひどいことをするのか/わたしにも皆と同じように接してほしい、などと問い質したり懇願したりすることもあった。だが、とうとうあるとき気がついてしまった。わたしにはごく当たり前のことを相手に求めて得られるような関係性を築く能力が決定的に欠けているということに。

 それに気づいて以降は、だからかなりひどい目に遭っても自分だけのためには抗議したり騒いだりすることは極力控えるようになった。求めれば、おそらく人目を気にして相手が謝罪することもないわけではない。でも、もとはといえば、相手はわたしによくする義理など殆ど感じていなかったからこそ、故意かあるいは過失により、わたしにとって嬉しくない何らかの行為をしたわけで、義理(=重んじる意味のある関係性)のない相手であるわたしに何をしても本来は詰られたり謝らされたりする必要はないわけだ。だから、抗議したり謝ったりはお互いにただの時間の無駄であり、また、相手を謝らせて自分の面子を保つことで維持すべき居場所など最初からわたしはもっていない。それなのに不思議なことに、謝られたあとはなぜかわたしはますますそこに居づらくなる。いかにも「不当な」要求を充たしたクレイマーとして。

 さて。自分が悲しく寂しく惨めな思いをしたことについて、同じ広さと深度をもって、同情したり、あるいは謝罪したりすることをわたしは他人に求めない。それは、客観的に、その逆のことを誰かに対して行うことがわたしには不可能であるからだ。わたしの気持ちとして、つまり主観的に、自分はあの人のつらさを理解していると信じることはできる。また、何らかの手違いから、相手がわたしがその人の気持ちに寄り添っていると(主観的に)知覚することもあるかもしれない。でも、空間的時間的拡がりをもつ事象について、ふたりの人間の心情が一致することはとても少ない。まして、一方が、例の能力の不足しているわたしである。ともかく、だからこそ、人間は一時的にであれ心情の一致しやすい、旨いものや心地よい場所を共有しようとするのかもしれない。ご馳走とか、温泉とか。