ぴょん記

こつこつ憶える

肥えたおなごと隣の端末

 きのうのはてなブックマークのホットエントリで、「アメリカの航空機の客室内において、ある肥満した女性が、隣席の男性が端末を通じて友人に彼女の嵩が迷惑である旨送信したのを見て、動画を録画しつつ、彼に対して謝罪を求め、彼が謝るさまをSNSで発信した。」というのがあった。男女を問わず肥えたひとが隣りに座ることによって、ただでさえ狭い旅客機内のパーソナルスペースがさらに削られることを憂く思う人々は概ね男性に同情的であった。この女性については、1.肥えていること、2.他人の端末を覗き見たこと、3.顛末を含めて、謝罪する姿を公にしたこと、の3点が主に問責のポイントとされている。他方、この男性については、なんだろう、もし、この隣席のとにかく「大きな人」が、身長2メートルを超す、筋肉隆々とした、しかも法と秩序よりは拳の力を信じるタイプにみえる男性だったら、はたしてこの人は、端末の画面が彼に見られうる状態で、「となりのひとが大きくてじゃま!」と、おともだちにリアルタイムで報告しただろうか。端末は、もしかしたら、隣の肥えたおなごに、『わたしはあなたの身の嵩を迷惑に思っているし、友人に話すこともためらいません。それをこの画面を見られる状態にすることであなたに知られることも厭いませんけど、だからといってわたしに口答えすることはできませんよね。』とアピールするための道具として使われたのではないだろうか。これは穿ち過ぎな考え方か。

 もちろん、他人の個人的な端末を許しもないのにのぞき込むことはよくないことだ。だから、げんに彼女は、上記の2.で責められている。でも、見えるように、または、見えたら見えたで構わないように、あからさまに、自分を非難する文面などが送受信されているのを認めたとき、つねにそれについて無関心を装うべきかといえば、そこには大きな疑問が残る。

 このところ、翻訳文学などを集中して読んでいて、どうにもこのごろ、例の「悪の凡庸さ」について考えさせられることが多い。究極的には対象の生命を奪うという暴力は、いくつかの条件が整っただけで、想像以上に少ない「手続」のあと、実行される。わたしたちは、ひどいことをすることについて、自分で思う以上に適性がある。

 だからかもしれないが、教育の場で、「いじめ」といわれる、暴行・傷害、器物損壊、名誉毀損、侮辱などの行為についても、たぶん「いじめることの快楽」について、もっと研究が進められなければ(=お金を掛けなければ)、有効な対策が立てにくいのではないか。

f:id:e_pyonpyon21:20170730075949j:plain