ぴょん記

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歴史のメモの続き

 きのう、日本版ウィキペディアの白壁王の項(正確には、「光仁天皇」の頁。)を読んでいて、その生年月日が和銅2年10月13日(709年11月18日)であることを知り、それなのに、御母である紀橡姫が同じ日本版ウィキペディアの自身の項では、王の出生に先立つ、同じく和銅2年9月14日(709年10月21日)に薨去したとされていることに気がついた。生母の亡くなった日から日を隔てて子が生まれることは現代の生殖医療のもとにおいてもやや考えにくい。紀橡姫の没年月日のデータが採取された一次資料は、いったい。歴史学を学んだ人ならばああこれはおそらく、と推測できるようなことかもしれないけど、わたしにはわからない。

 さて、ともかく、この出生のたぶん直後に母親を亡くした白壁王は、8歳で父親の志貴皇子とも死別する。聖武天皇、その娘の孝謙称徳天皇重祚)が天武系の血筋の帝であったのを、天智天皇の子である志貴皇子の子・白壁王が継ぐことで、今日まで、天武天皇の血筋が皇位に就くようになった。さらに、白壁王が光仁天皇となったのち、その御位を高野新笠という百済系の母をもつ山部親王が受け継ぎ、桓武天皇となった蔭に、光仁天皇の嫡妻嫡子である井上皇后他戸親王の廃后廃太子という「悲劇」があった。井上皇后は、天武系の聖武天皇の娘であるから、他戸親王が帝になっていれば、彼は、天智系と天武系を再び合流させた天皇になっていたはずである。それをあえて廃立して、百済系の血を引く山部親王を皇太子に据え直したのは、誰なのか、そしてその目的はなんだったのかについては、たくさんの論考があるのだろう、おそらく。ただ、目下、わたしが気になるのは、白壁王と井上内親王の間に、他戸親王の同母姉として生まれた酒人内親王という女性のことだ。彼女は、母と弟が父を呪詛したとされて庶人に落とされ、幽閉されるという大きな不幸のなか、伊勢斎宮に卜定されて、潔斎を経て、伊勢へと下向する。そして、母と弟の死により斎宮を退下して都へ戻ってくるわけだが、そのあとで酒人内親王は、母弟の死に因縁の深い異母兄・山部親王の妃になる。後に桓武天皇となった夫は、この17才下の妻をもっとも寵愛したとウィキにはあるが。

 

美貌の女帝

美貌の女帝

 

 

 

檀林皇后私譜 (上) (中公文庫)

檀林皇后私譜 (上) (中公文庫)

 

 

 

檀林皇后私譜 (下) (中公文庫)

檀林皇后私譜 (下) (中公文庫)