ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

人には「転機」が必要か

 つい昨日か一昨日だったが、トゥギャッターで、「女に大学教育は不要」という言説に多く曝されてきた、はたまた殆ど触れなかったというツイートのストリームを見掛けた。自分のことをいうと、性別と進学を結びつけて語る大人や同年代の存在はまず記憶にないから、上の群でいうと後者に属するのだろう。

 そういうわけで、高校、大学、その先と進学して、学籍を失ってからも塾・予備校業界で、なんなら毛玉のついたセーター着て出ても白衣やジャケットで隠れるから大丈夫、くらいの穏やかな暮らしを続けてきた。途中で結婚もしたし、3年ほど学生に戻りもしたけれど、その間も、中高生の勉強を手伝うことで米代を稼いできたから、暮らし自体には「転機を迎えた」といえるほどの変化はなかった。それには、いまの住まいに何十年か住み続けているという事情も深い影を落としているのであるが。

 ところで、生物学に幼形成熟というのがあるそうだ。ネオテニー。生物が、幼体のまま、生殖可能な状態に変化することをいうらしい。生殖することなく病んでいずれは老いていく身体はともかく、わたしのこころは、一種、これに似たものではないかと思うことがある。物事を判断するにあたって、未熟な、いや、いっそ不熟な本性を隠しようもなく露呈して、まわりを慌てさせてしまうことが多々ある。それは、大きな転機という通過儀礼を経ることなく、のらりくらりと去りゆく時を見送り、数多のものごとを遣り過ごしてきた、その人生態度に起因するところが大きいといえるだろう。

 おそらくは、しっかりした大人になるためには、就職や結婚、子育てなど、大きな転機を自力で乗り越え、たとえ事後的であっても、あああれがわたしの転機だったと振り返る作業がきっと必要なのだ。とはいいながら、皆がみんな、しっかりしていなくていいとは思うけど。