ぴょん記

上古文学、外国語、数学、調理、編みもの、縫いもの、競争法

それは心をなぐさめない

 学生のとき、百貨店のテナントとして入っているカフェのウェイトレスのアルバイトをしたことがある。ウェイトレスのアルバイトは初めてではなかった。ただし、そのカフェでは、店長が、はい採用、と言ったあとに、妙なことを口走った。曰く、「店員の人とか、テナントの人がお客さんでやってきて、意地悪をいうことがあるけど、けっして逆らわないで受け流してね。」と。

 「意地悪」は、わりとわかりやすかった。休憩時間にやってきた、上の階で洋服を売る人なのであろう30歳くらいの女性のお客様が、コーヒーを運んでいったわたしに、「ああら、あんた、地味ね。」といきなりおっしゃった。しかし、動じない。小首を傾げて、おそれいります、ごゆっくりどうぞ、と頭を下げる程度には、わたしもウェイトレスとしての勤務歴があった。地味、化粧が薄い、日曜なのにアルバイトなの、彼氏とかいないよね、と、まあ、ほかの販売職と思しきお客様*1からだしぬけにぶつけられる「意地悪」も、ジャブ程度だった。

 このおんなたちは、と、わたしは広くもないカフェのなかを空席の卓上をダスターで拭いて回りながら密かに思う。一着3万円だか5万円だかのブラウスやスカートをお客さんに売る。テナントのブランドによって、購買層の平均年齢は異なるけど、お客さんの多くは、都心で働くまあまあ若い女性で、わざわざ郊外のこの百貨店で買いものをするのは、自宅から近くて、休日や仕事帰りに買いものするのに便利だから。その自宅には、夫や、父母がいて、たとえ彼女自身の手取りの給与が20万円を割っていたとしても、ひとりで住居費を払っているわけではないから、ほどほどの洋服代は蹴出せる仕組みになっている。でも、もとより予算は無制限ではないから、費用対効果を考えて、入念に試着を繰り返すことであろうし、ショップのはしごもするだろう。一方、ショップ店員には、期間ごとの売上ノルマがあり、それは大きな心理的負担であろうから、ゆえに、コーヒーを飲んで紫煙をくゆらすカフェでのひとときに、学生アルバイトに軽い「意地悪」をぶつけていくのだ。

 百貨店の中のそのカフェは、彼女たちの「意地悪」を受け止めるクッションの役割を果たしていた。求人募集の張り紙に、まさかそういう『特記事項』があるとは書けないだろうが、ウェイトレスとして採用したあとでも、いまでいう「感情労働」に対する手当も支給されないようだったので、授業が忙しくなったのをしおに、わたしはそのカフェをやめた。

 さて、休み時間にカフェの学生アルバイトに意地悪をいうことで、販売職の彼女たちの心ははたして安らいだのか。

 わたしの経験では、つらいことがあったとき、無関係の誰かにきつく当たっても、心が楽になったりはしない。カフェの店長として、店をうまく回し、生計を立てるためとはいえ、アルバイトのウェイトレスに理不尽を堪えろと言い渡していたおじさんの名前も顔ももう忘れてしまった。それを告げられた瞬間に、その店長が特に弱いわけでも狡いわけでもないが、必要がいわせた一言なのだと、二十歳のわたしが思ったかどうかは、いまとなっては靄の向こうにかすむ記憶だ。

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シミシミ集めるヤマザキの点数

 とりあえず鋏で切り取って、台所の棚に張った小さな紙袋に溜めてはいる。もはやなにが景品であるかも忘れたのに。

 

*1:テナントの売り子さんはその百貨店の制服ではなく、たとえばそのテナントが売りたい服をお召しになっている。