きのうのエントリの終わりに、森村誠一『分水嶺』を紹介しておいた。わたしは、この本を、高校時代に子守のために泊まった先で見つけて読んだ。各種設定や人物造型について指摘したい点は多々あれど、約40年前に書かれた小説であることを踏まえるとあまりきついことも書けない。要するにこの小説は、一面では、東南アジアで行われている戦争で使用するために開発中の兵器の実験台として、余命幾ばくもないわが身を差し出し、その対価を妻子の生活費として残そうという若い男性のものがたりなのだ。そして、反対側からこれをみれば、自分の探究心の充足と化学メーカー内部での立身出世のために、骨身を削って爆発物やガスを作り続ける別の男の人生のストーリーで、病気の男と化学者とは、大学の同期生で山仲間である、と、くれば、同じ森村誠一の『青春の源流』を思い出す。山に籠もって徴兵を逃れた男と、出征して終戦後もベトナムに残って戦い続けた男。歳月が過ぎてみれば、お互いの来し方は縹渺として感慨も尽きない、という長編だったが、あれも、出てくる女の殆どが主人公らにとってなんとも優しすぎる……、まあ、ここでは深く述べないでおく。とにかく、『分水嶺』を引いたのには、自分の生命や身体を処分することが人間に許されるのかを考える契機になればという思いがあったのだけど、これらの社会派的な著作を認めたあと、森村誠一は、あの『悪魔の飽食』で、戦争中に行われた生体実験とその後の医学の急速な進歩という正視しがたい事実を現にその恩恵を受けるわたしたちに堂々と提示するに至る。