ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

気に掛ける、「顧慮」ということ

 親族や割と接触の多い人の中には、「なになにさんにこれだけしたのに相応の見返りがなかった」という内容でときに怒る人がいた。それが、『某のこどもさんの入学祝いに5000円包んだのに、自分のこどもの入学時、某は知らぬ顔だった。』には、単純に経済的に5000円の損失を被った、という意味とは別に、『わたしは某とその家族に対して礼を尽くしたのに、某はそうしなかった。わたしは、某には、相互に礼を示し合うべき相手とは認識されていない。』という恨みのような思いを含んでいると気付いたのは、ほんとうにごく最近のことだ。

 まるで、ドイツ法の物権変動のやうな。まあ、それはいいや。

 わたしは、幼稚園の担任教諭がにやにやしながら、「あのね、向こうがお友達になりたくないというなら、それはもうしかたがないねえ。」とオシエテクレタときから、こちらが礼儀に則ってなにかしても図に乗った相手がかえって失礼なことをすることがあるのは了解済みだった。給食のプリンをわたしにも決まり通りに1個、配って下さいというのと、まゆみちゃんのおうちにわたしもお呼ばれされたいというのは、そりゃ違う。こころの中にあるのは、たいてい、うまくいってもきっとおもしろうないという気持ちで、だから、自分がどう扱われてもあまり怒らない。そして、軽んじられたとかあの人は無礼だとか目の端で小さな騒ぎが起こるたびに、本気で悔しいと思っているのかそれとも政治的に憾みを表明しているにすぎないのかなるべく正確に識別したい、ぐらいのことしか考えない。

 自分を大切にしない人にもっとわたしを大切に扱いなさいと求めるのは、なんだか空しい。ほかに大事にしてくれる人がいれば、その人たちからの温情でこころをほとびさせて、あとは多くを求めないほうがいい。

 さてさて。お金やモノではなく、純粋に言祝ぐ気持ちや労る思いが先方に伝われば苦労はない。そうではないから、少なからぬ金高のカネやモノに気持ちを仮託して、人は相手に届けようとする。それが逆転して、カネやモノがないと、祝儀のこころや見舞いのまなざしが根こそぎないことになってしまう。そういうのもいかにもなんだかなあだけど。

 ちょっと古いともだち、新しめの友達からの来信を前に、じわりときた。

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