学生のころ、同じ高校の卒業生である友人Bから、高校同期のCが上京してくるから2晩ほどわたしのアパートに泊めてやってくれまいかと頼まれたことがある。B本人は女子寮住まいで、寮生以外の人を居室に入れることはできないという。なお、Cも女性である。
大昔のことであるから、記憶は曖昧だが、話を聞いてわりあいすぐにBの希望には添えないと断りをいれた筈である。そもそもCはわたしの友人ではなかったし*1、友人でも泊めるのを断ることはある。なんなら都内にはたくさんのホテルや旅館があるから、Cはそこに泊まればよい。泊められないと聞いたBは、なんだかとても不服げで、わたしがCに親切ではないことを残念に思うという意味のことを口にした。わたしはわたしで、だいたいにおいて思慮深く遠慮がちなBが、ことこの件に限っては、わたしが断らないという前提で話を進めていたようで、そのことを少なからず遺憾に思っていたのだけど*2。
中高通して、わたしは、人の悪口というものをいわないように心がけていた。効果的に悪口を叩くことでクラス内の人間関係をコントロールすることが可能であるのも確かである。しかし、誰かの悪口を聞かせるべき適当な相手を見極めること、その相手の口の堅さ又は緩さ、悪口の当の対象から逆襲された場合の対策、なにより自分の叩いた悪口を覚えておくことなど、各オペレーションに要するすべてのコストを計算すると、たとえでくのぼうとしてクラス内にぽつんとひとりで放置されることになったとしても、悪口をいわないほうがなお儲けが残る。ただし、長期的にみて。
ところで、高校を卒業したあと、ずいぶん経ってから、わりと仲のよかった同級生Dと話したときに、わたしは同級生のEに悪口をいわれて、そのほかにもつらく当たられて、日々つよく苦痛を覚えたなどといったところ、Dから、そういうふうだから厭がられていたのだなどと的外れな評をもらった。もしもわたしがEに悪口をいうなとねじ込んだとしたら、そのときDはわたしの味方になっていただろうか。いや、卒業後でさえもこんなふうだから、まして女子高生だった当時に、わたしの肩をもってくれるとは思えない。悪口をいういわれるは、正義不正義の問題ではなく、好き嫌いだけが支配する事柄だから、コストを払ってでもいった者のほうが勝ちなのだ。少なくとも、その場においては。
BとDはわたしの友達だった。一方、CとEは、わたしの友達ではなかった。Fという、一部で著名な人となった同級生もいたけれど、先年亡くなってしまった。彼女については、歿したがゆえに、思うところがないわけではないけれど、ここではあえて口を噤むべきだろう。BやDとは楽しい時間をたくさん過ごした。しかし、わたしの心の表層から5ミリより深いところまでは明かすことなくいつのまにか会わないようになってしまった。
なにかのときに力になってくれる友だちというのが人生には必須という人もいるけれど、わたしは、口が堅くて、わたしのことを陰で悪くいわなかったら、それだけでうれしいと思います。
— pyonthebunny (@ae_pyonpyon21_j) 2018年10月18日