早く眠りすぎて1時半に目が覚める
— pyonthebunny (@ae_pyonpyon21_j) 2019年5月29日
結局、21時過ぎに全仏オープン2回戦での大坂なおみさんの勝ちが確定するのを見届けるまで起きていた。幾つか心配ごとも抱えている。ふだんのむ薬を意図的にのまなかったのも大いに関係している。眠り直さなかった理由はそのように幾つかあるが*1、とにかく起きていて、家のなかでひとりで片付けられる小さい用事を立て続けにこなしていた。
人生は、あまりに短いと感じることもたびたびあるが、鄙事に埋もれて時間が自分ごと圧縮されたある瞬間などには、それでも十分長いと思う。木曜は、そのようにすべてをゆっくりと感じる一日で、うちの最大の土鍋*2で、前日のスープの残りも加えて、ごく普通のポークカレーを炊いた。そして、税務署から届いた書類に目を通して、必要な事項を手の届く範囲で調査したり、言わずもがなのことをしかし書かずにいれば忘れてしまうのでほぼ日の2冊の手帳にしみしみと書き込んだりしていた。
さて。いわゆる通り魔事件が起こると、「被疑者は『標的は誰でもよかった。』とはいうが、過たず、自分よりは力の弱い、逃げる能力の乏しい者を選んで殺傷している。」という声が起こる。では、もし、被疑者が真に無差別に道行く人を標的としたなら、はじめに武術の心得のある屈強な人物に当たってしまうと、そこで被疑者の試みは頓挫してしまう。得物を取り上げられて、身体を押さえ込まれ、逮捕拘束されてそこで終わりである。当初意図した犯行を完遂させるためには、対象は、自分よりもより小さくより弱くそしてゆっくりと動かなければならない。「誰でもよかった」という供述には、当然の前提として、「犯罪を完遂することができる相手ならば」が含まれている。これと関連して思い出すのは、「不正なプログラム」の話で、どこかの計算機に不正な動作を行わせるためのプログラムは、しかし、まったくめちゃくちゃなものである筈もなく、不正な動作を行わせるという目的を果たすまでは、わたしはふつうの正常なプログラムですよという顔でいくつかのドアをパスして、けっして異常を感知されてはならない。その意味で、「きちんと動く」を省略された「不正のプログラム」なのだ。まるで記述されない構成要件のような話になってしまったけれど、「誰でもよい」のほんとうの意味も、きっと一部の人の間では、暗黙の了解なのだろう。
ぼくら、なにも失うもののない「無敵の人」をどうするのかとかはたして「無敵の人」の物語で語り尽くすことができるのかこれとかいろいろ話している。ふつうにフルタイムで働いてきた人でさえいろいろ苦しくなる未来が示されているときに、やや深刻な病気を抱えているわたしや、ながく社会から離れていた人や、そういう諸々が不安の色を濃くするのはむしろ正常な反応だ。だから、だからこそ、一日一日をときには滑る岩にへばりつこうとする蛙のように辛抱強く過ごすのに、わずかでも意味があるような気もする。