ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

伯母さんの焼いた餅

 これは、昭和32年か33年、西暦でいうと、1957年ごろの話で、2019年の現在からは、約60年前の話。ツルは、中学を出て、家から峠をひとつふたつ越えた先にある国鉄の駅をつかって裁縫の学校に通っていた。ツルが11歳の春先、母親は、兄とツルと妹の3人の子を残して亡くなってしまった。だから、ツルは、母親の葬式が済んだ日から、母が入院する前後からと同じように父と兄妹と自分のめしの仕度をして、洗濯をして、掃除をした。連日、学校にいっている暇はなかったので、5歳の妹の面倒をみてくれる親戚の都合がつく日だけ登校していた。自分は、どうにかこうにか中学を卒業したら、名古屋あたりの紡績工場に就職して、昼は機械の世話をして、夜は工場の寮の中にあるという教室で生け花や裁縫を習って、嫁にいくまでの数年を過ごすのだと思っていたら、さきに就職して名古屋で働いていた兄から、紡績工場などとんでもない、おまえは身体が強くはないのだからすぐに健康を害することだろうし、第一、親父と妹のめしは誰が炊くのだと、都会での就職を止められたのだった。そういうわけで、ツルは、家の飯炊きをしながら、峠の向こうの向こうの駅まで歩いてそこから汽車に乗ってやや大きな町にある裁縫学校に通った。駅から峠を越えて家に帰る途中、早くに亡くなった母親の姉の家があった。ツルが学校の帰りにそのうちの前に達する時刻はおおかた判っていたから、伯母は姪のツルのために、茶を入れて餅や菓子を用意して待っていてくれた。伯母の連れ合いも、家にいるときには、ツルに餅や菓子や、季節の果物を勧めてくれた。夫妻の一人息子は、ツルたちきょうだいには従兄にあたる人だけど、昭和20年の初夏に、鹿児島のある航空基地から飛び立って還ってはこなかった。

 あるときツルは、伯母や母親の弟にあたる源太の妻のセイが、自分よりも数時間前に、同じように伯母のうちで茶と餅で小腹を満たして村へ帰ったと聞かされた。セイは、戦前は、満州で女ひとりで商売をしていた男勝りで、思ったことをわりとはきはきと口にするタイプだった。ツルにとっては、これまた従弟であるこどもらをあるいは背に負い、あるいはその手を引いて、セイは、実家から婚家へと戻る途中に彼女にとっては夫の姉であるツルの伯母のうちに寄ったのだ。そして、ひとりで餅を3個食べていったと、ツルは伯父から聞かされた。食事として、ではない。昼の食事を実家で取ってすぐ、婚家へ戻るまでに、大ぶりの丸餅3個である。従弟らも一緒だったからとツルが遠慮がちにいえば、こどもの分とは別に、きっかり3個食べたのだと伯母が口にした。まだまだ砂糖は希少な時代で、七輪で炙った餅に醤油だけを塗った、それでも香ばしい餅を、セイは、3つ平らげて、伯父伯母に礼を言い、来たときと同じように堂々と、こどもらとともに歩み去ったのだった。ツルは、そのことをずっと覚えていた。彼女は、伯父伯母が亡くなったあとも、通学途中の毎日の親切をありがたく感じ続けていた。そのエピソードを娘のジミコに折に触れて語っていたが、ただし、叔父の妻のセイが、ある日、餅を3個、ぺろりと食べてしまったことを話したのは、令和になった今日がはじめてだった。

f:id:e_pyonpyon21:20190603153811j:plain

すみださん再掲(餅画像の代わり