ぴょん記

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宮中女房に三種あり

 この一週間、山本淳子先生の註と現代語訳で、興味深く『紫式部日記』を読んできたわけですが、定子や彰子が中宮であった時代、すなわち西暦1000年ごろの後宮には、私的にキサキに仕える女房として、次の三種があったようだ。

  1. 女房を職業とし、主家を渡り歩くこともある、母娘累代の女房も。職業女房。女房的女房。中流以下の貴族の出身か。
  2. 父が亡くなる、あるいは実家が零落するなどして、上流の姫君と呼ばれるべき女性が他家に女房として雇われて働く、零落女房。
  3. 和歌や物語、稀に漢学の才を評価されて、雇われる才芸女房。

 紫式部は、このうち、3.の「才芸女房」に当たり、彰子中宮の貴種の母である源倫子の姪である大納言の君らと比較しても遜色ないもてなされかたで、道長家に雇われたという。たしかに、彼女の父親は学者としても高く評価されていたし、その父親は、彼女が弟よりも早く漢詩を諳んじるのをみて、(わりとおきまりの)「この子が男子であったならば」というフレーズを口にしたとほかならぬ本人が日記に書いている。でも、受領なのである。地方官として上国の守にでも任じられれば、在任中に富を貯え、それをつかって要路に付け届けを怠らず、さらによい国へと配置されることも望めるというが、そううまくはいかない。中級貴族の数と国司のポストの数の釣り合いから、それほどの好循環は時代が下るごとに殆ど期待できなくなる。為時のむすめは、飢えこそしないが、栄えのない青春期を過ごし、父と年の変わらぬ受領との短い結婚生活のあと夫と死別した。つまり、紫式部は、その文学的才能がなければ、ふつうの受領層の女で、女房としては、1.の分類に数えられる。

 その彼女が、道長家及び中宮彰子の後援を得て、『源氏物語』をものしたのは、ひとえに道長が定子のサロンにあった耀きをわが娘のもとにもと心を砕いたからであって、彼の政治的野心がかなりダイレクトにはたらいて、いま、わたしたちは、光源氏もののあはれな魂の遍歴をその気になれば、電車の中でもベッドの上でも読むことができる。

 ありがたいことである。

 ついでに書いておくと、源氏の桐壺の冒頭で、「亡くなった大納言の娘が更衣として入内してミカドの御目にとまったことを昔からいる主立った后妃の皆さんは面白く思わなかったが、『まして』それほど身分が高いわけではない女人たちは、自分たちと同じ階層の桐壺がミカドのご寵愛に与るのをみて、もう、ねえ。」という箇所があることもいまさらに味わい深い。1.の職業女房たちは受領層の出身で、だから、紫式部は、自分たちと家柄においてはあまり差がない。しかし、紫式部は、現実には、2.のお嬢様女房らと同じかあるいはそれよりも上の待遇を主家から受けている。それが紫式部の才芸のゆえであることを知っているけれども、しかし、やはり面白くない(だから、陰で紫式部につらく当たる。そこへ教養及び教養の持ち主への敬いの心はまったくない。)。この現実の女房らのへんねしと、物語の中の更衣らのやきもちがパラレルに把握できるが、しかし、そこにはみじんも爽快感はない。

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やっときのう2輪、きょうも2輪咲いた朝顔