ずっと他者との軋轢が甚だしい環境を生きてきた。トラブルの原因は本来ならばいてはいけないところに自分がいるせいだと割り切って、揉めそうになる前に身を躱す習慣をつけてきた。理屈でいえば自分が譲るべきではないときでさえ、なぜか係争の相手方が庇われる。なぜか。あえていえば、たいていは、「わたし」よりも相手方のほうが好まれているからだ。その好悪に基づく不公正を組織なり個人なりのうちにみるくらいならはじめから争わないほうがいい。
不公正の行われる場所が、学校や職場なら、まだいい。やめてほかへいくことができる。しかし、それが家族ならば?いずれ出て行くしかない、そうはじめて思ったのは、七つか八つのときだった。といっても、まだ、「わたし」には、逃げていく先がたくさんあった。
『プライベート・ウォー』は、絶望的な状況の中をあえて進み続けることを選んだ人間の物語として秀逸だったので、ぜひ皆にみてほしいです。
— pyonthebunny (@ae_pyonpyon21_j) September 14, 2019
それはさておき、国家という大きなイエが、国民という構成単位に向かって牙を剥いてきたとき、ふつうの市民、町や村を形作るひとりひとりは、なすすべもなく爆撃され掠奪され殺害されて埋められる。逃げ場のない暴力の前に長期間晒されて、少年は恐怖のために声を奪われ、母親の乳は止まって幼子は飢える。戦場を遠く離れた繁栄のなかに暮らす人々が、知らないことあるいは知らない顔でいることを練達の記者が現地から命懸けで伝える。記者も、左目の視力を失い、こころの平衡も崩れていく。それでも、また、戦場へ飛び込んでいく。