ぴょん記

食べる、遊ぶ、学ぶ。

友だちいてもいなくても

 自分については、「友だちが多い/少ない」とか「人に好かれる/嫌われる」という評価基準に、甚だしく、しかも長期にわたって惑わされていたように思う。それが学生をやめて、非正規といいながら先生呼ばわりされる稼業に就いてずいぶん経ってやっと、友だちが少なかろうが嫌われるところが多少はあろうが、人の悪口をいわずに*1怠けることなく働いてさえいれば、毎月ぼちぼちのお金は口座に入ってくることがわかった。この事実は、わたしの気分をかなりひろやかにした。選ばれないばかりに仕事もお金も与えられず、干されて餓え死ぬことばかりぼんやり思い浮かべてじわじわと恐怖していたけれど、身に過ぎた贅沢さえ望まなければ、とりあえずは生きていけるのだ、と。

 そういうことを思い出したきっかけは、昨日のあるアノニマスダイアリー。

 

友達いないと寂しい理由が分からない

アセクシュアルの人の存在も認知されてきたくらいなので、人と積極的に交友関係をもとうと思わない人がいることも認められていい。排除するのではなく、あれはそういう人だから、と好みを尊重するかたちで。

2019/11/12 23:55

  上のブックマークコメント中の「そういう人」は、別段、「偏屈な人」というニュアンスを含まない。他人との距離を長めにとるからといって、その人が社会に対して反抗的であるわけでも社会を破壊するわけでもない。

 病気になったら/死んでしまったら、については、何百万円か事前に積んでおけば、法律のプロがきれいに片付けてくれるサービスが今後は整備されていくことだろう。住むところについては、コーポレートハウスのように、数世帯でお金を出し合って企画段階から建てる集合住宅もあるけれど、その程度の親しい交際さえ、わたしは、破綻させずに続けられる自分とは思わない。だから、ご近所どなたさまも掃き出し窓の開け閉てがお元気でおいでだと惘れつつ、この賃貸住宅の古びる速度を追い越しながら生物としてどんどん劣化していくに違いない。

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豚肉の団子のうどんに小松菜

 

*1:一般に、わたしは、Bさんの悪口をCさんにいうほど、Cさんのことを信用することはできない。