ぴょん記

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かわいそうと感じるのは間違いか

 きのうのYouTubeのコメントにあった問題を考え続けている。わたしは、虐められていたり差別されたりする人を『かわいそう』と感じることをよろしくないとは思わない。ある人は、ある人を『かわいそう』だとすることで、その相手を、自分と同じ平面に立つ一個体ではなく、何段階か下に位置する、保護すべき個体として確定的に捉えてしまうのがよくないという。柄の悪い言い回しを用いれば、「何様だよ。」となるだろう。

 しかし、はたしてそうだろうか。かわいそうと感じること、同情することは、「よろしくない」のだろうか。

 吉田秋生YASHA』という長編の漫画がある。その中で、「同情」について、情を同じくすることがよくないとは思わないと、ある女性がいう。そのニュアンスにおいて、同情は、相手のいる空間に身を移して、心を通わせ、寄り添うことを示している。

 学校の廊下で殴られている同級生をみて、殴っているほうに向かって、かわいそうじゃないかやめろよと止めるのと、自分が同じことをされたら厭だからやめてくれと頼むのと、殴るのを止めるという不作為を求めるのは同じである。殴られていた当人は、かわいそうと評されつつ庇われるのと、げんに殴られていない者が殴られたら厭だからという仮定の話を交えて殴打を止めるのと、いずれの場合に強く羞恥を覚えるだろうか、屈辱を感じるだろうか。……とりあえず、頭の上に腹の真ん中に落ちてくる拳がなくなれば、その場は楽になると思うのだけど*1

 「かわいそう」ってなんだろう。さらに考え続ける。

 

八百夜(2) (ウィングス・コミックス)

八百夜(2) (ウィングス・コミックス)

 
八百夜(1) (ウィングス・コミックス)

八百夜(1) (ウィングス・コミックス)

 

 

*1:上の2例は、直接的同情と間接的同情である。