最近、このパタン増えてきていて、「ライターと編集者がいない」という驚愕の現場で回っている媒体がけっこうあるということを頭に入れて対応せざるをえなくなっている。 https://t.co/e3rTE2gWGz
— 米光一成・はぁって言うゲーム遊んでねー (@yonemitsu) 2021年1月12日
ライターも編集者も、何年も給料もらいながら修業して一人前になるものなのに、いまはそういう余裕がないのかもしれない。でも、社会人になる前段階の学部の教養課程において、人文科目を担当する人的な資源が大幅に削られた90年代のことを忘れてはいけない。>RT
— pyonthebunny (@ae_pyonpyon21_j) 2021年1月12日
単なる「お作法」を超えた、「読み書き話し聞く」専門技術者としての能力が、編集者にもライターにも求められる。文字でまとめられた資料や人の談話、会議の記録などのコーパスを正確に把握して、受け手の属性に応じて理解しやすいかたちに整えて自分の領域から送り出すためには、何千時間に及ぶ修練が必要で、修業中は適当な監督者らの目や声によって育てられねばならない。
これまで大手から中小、極端な場合は家族経営の出版社で行われていた教育を行う、その余裕が、いまの社会には、ない。そして、それに加えて、わたしのツイートの後半で触れたように、教養課程で人文系の科目が薄くなったため、若い編集者やライターは、その道で食べていくために身に付けておくべきもののより多くを、自分で、手探りで獲得しなければいけない。学校と職場の2つの段階で、与えられるものの総量は、それぞれ少なくなっているのだから。
気の毒なことである。そのような苦境にありながら、それでも花開くべき才能は繚乱のときを迎えるのだろうが、わたしは、そこに行き着く前に時代の霜に打たれて凋み枯れるたくさんの可能性をこそ惜しむ。