ぴょん記

大根のおいしい季節ですね。

怒らないように倦まず弛まず努めてまいりました

 以前、病気の治療として、数日掛けてステロイドの大量投与を受けた。パルス療法というらしい。これを初めて受けたとき、たまたまかなり動揺する知らせがあって、頻脈が始まった。頻脈は、いろいろな理由で起こるといわれるが、わたしの場合は、わりと前触れなしに起こって、そのまま自然にしていてはなかなか収まらない。入院時ならば錠剤をもらったり注射してもらったり、なにかと薬剤にお世話になることが多い。毛細血管かなにかを焼灼するかどうかするという治療法があるらしいが、ステロイドを多量にのんでいるわたしは適応がなかった。

 ここまではただの前置きで、つまり、病気になる数年前から、わたしには、「動揺すると、とくに怒ると、頻脈が起きやすい」という傾向があって、しかもその頻脈は長引いてきついものあったので、頻脈を避けるべく、なるべく怒らないように心懸けてきた。そのための方法のひとつが、先日のエントリで書いたように、不快な事態に陥るのを回避することだ。そのほかにも、たとえば病院の行き帰りに心身の疲労をおぼえずに済むように、家計費に上乗せして往復の車代を受け取ってはいるのだが、それは、このごろ京樽の持ち帰り鮨などによく化けるようだ。わりと満員に近いバス電車の不快を大きく上回る快が、どうやら京樽の経木の折には詰まっているらしい。

 それがこのところ、頻脈はほとんど起こっていない。それは、感情の起伏をあえて抑えてきたことの効もあるけれど、なにより毎日経口で摂取するステロイドの量が10年弱を経てやっと少なめになってきたからだろう。

 さて、これは頻脈とはまったく関係ないことだけれど、なんだかこのごろ厭だなと思うことが幾つか立て続けに起こって、澱んだ水の中に浸かっているような気分が続いていた。今朝、起きるか起きないか決めかねている寝覚めの床の中で、ああこれって「怒り」だったわと、ふと、本来、心を占めるべき感情の名前を思い出した。煎じ詰めれば、わたしは、いくつかの局面で不当に扱われていると思っていて、謝られるとか扱いを改善されるとか、そういう相手の行動は今回もまったく期待、希望してはおらず、ただ恨みのみが意識のベースにあったのだ。その恨みは、しかし、正しくは怒りによって表されるべき感情だ。怒りならば昇華する余地はあるけれど、恨みはきりもなく積もるだけである。

 それはともかく、怒りのつよさも恨みのつめたさも、自意識が平衡を保つためのものだとしたら、自分だけの秘密として、それらの感情をも正直に認めてもよいと思う。

 

あの夢をなぞって

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