ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

食物を口に運ぶ行為の周辺に付随する義務と責任

 ふだんはそれほど深くも考えずに行う飲食という営みが、体調が乱れてくると俄然慎重さを要求する。大きな病気をしてから、ときには食べないでいるほうがむしろ楽なことがあることを学んだ。一旦食べてしまえば、消化して吸収して、残った分は体内の老廃物と一緒に排泄する。どうしてもそれが難しいときは、嘔吐という現象も発生するようだが、わたしの身体はどうやら胃袋に一旦収めたものを離しにくいたちのようで、滅多に吐かないというか吐けない。以上が、個体としての人間の食事の手順である。

 一方、社会的存在としての人間の食事のサイクルはこれとは別に存在する。つまり、材料を集めて、食事を調え、食べたあとは調理器具や食器を洗ってしまい、塵芥は適切に処理するというものだ。人類学の啓蒙書で紹介されていたように、狩猟採集生活を行っていた時代のホモ・サピエンスは、1日に16km程度を歩いて必要なカロリーを手に入れていたらしい。子供連れの個体は、さらにもっと余計に歩かなければならない。その代わり、小一時間掛けてシチューを煮込むことも油で汚れた皿を洗うこともない。原則的にその日に獲れた/穫れたものはその日のうちにその場で食べて終わりなのだろうか。食べきれない分をとっておいたり、保存食にしたりする習慣はなかったのだろうか。とにかく、農耕開始以前の人類は、起きている時間の殆どを費やして食べものを探さねばならない代わりに、その前後の作業はほとんど免除されていた。

 ことさらにエシカルな消費を心懸けているわけではないが、母親の世代がレイチェル・カーソンの『沈黙の春』や有吉佐和子『複合汚染』を読んでいた影響で、なるべく環境負荷の少ないものを選ぶようにいわれてきた。いまならば、化学肥料や農薬が、人類のどんな苦難から生み出されたものか理解できるのだが、当時は、ただ、『けっこう、こわい』という認識しかなかった。そのうえで、あらためて、環境によくて倫理的にも許容できる消費とはなにかと考えれば、たとえば食についていえば、だいたい植物性の材料で作った料理を多すぎず少なすぎず、食べ続けていくことではないかと思う。

 何日かぶりに3合の米を圧力鍋で炊き、京都で買ってきた西利さんの柚子大根と祇園しば漬けでお茶漬けにして食べた。ごはんは90グラムくらいだったけど、漬物の塩気が好ましかった。せいだいに二酸化炭素を排出しながら東京から京都まで行って帰ってのおみやげの漬物がエシカルかどうかは別として、ほんとうにおいしかった。