ぴょん記

こつこつ憶える

懸案2つはなんとか

 昨日、なるべく怒ることなく解決を待ちたいと書いた2つの困りごとは、夕方までにいずれも片付いた。いずれも督促のメールを送って、ひとつは返事も戻らず、もうひとつも完全に納得のできる回答ではなかったけれど、年度末ではあるし、他人の頭のなかははかりしれないので、追及はそこまでにして、ぐったり放置していたのだ。

 

 皮肉を交えていってしまえば、人は、愛着のない、関係性の薄い、どちらかといえばどうでもいい他人の痛みならば、たとえ半年だって堪えることができる。愛されることの少ない、人との繋がりが乏しい、軽んじられることの多い人の苦しみは、顧みられること寡なく、たまたま誰かの目に留まっても見過ごされることがしばしばだ。

 

 今回、わたしの困りごとがそういう結果に終わらず、わたしが大きな憂き目に見舞われなかったのは、ひとえにそれらが契約や規約といった約束に守られた世界でのトラブルだったからだ。ただし、一見、約束に守られているかにみえる世界でも、外縁に近づけば近づくほど、どうしてこんなふうに(「わたし」に都合の悪い方向に解釈をねじ曲げて)当たってくるのだろう、という事例が増えてくる。

 

 はなしは突然かわるが、寝ている間に、「終活」について考えた。家の片付けを着々と済ませて、「最後」になるだろう入院の前に大きめのキャリーカートに詰めた荷物と預金通帳だけにする。「最期」のあとの仕儀は、予め契約しておいた法人の職員に任せてそのときがきたら病院から連絡がいくように手配しておく。ちょっと珍しい病気なので、病院はおそらく献体を厭がらないだろう。