ぴょん記

上古文学、外国語、数学、調理、編みもの、縫いもの、競争法

また嚢が膨張して

 わたしの下半身の微妙な箇所にあってときどき腫脹してはその存在を示す嚢については先に触れた。前回は、腫れすぎて形態を保つこと能わず、破れてしまったのだが、それまで数日を要してたいへん苦しんだ。昨日、また腫れているのに気付いて例の軟膏を用い、やれやれと半ばあきらめ顔で寝たのだけど、これが朝になるとまもなく破れていた。

 嚢が腫れると、場所が場所だけに、立ったり座ったりに苦労する。そして、そこがふつうの皮膚なのかそれとも粘膜なのか、際すぎて自分でもわからないので気持ちが悪くなる。たべものが口から入って次々とかたちを変えながら肛門から出されるまでの消化管、あれは、人間の身体の内側にはあるけれども、たべものその他の異物との接触という点においては、外界との最前線であるらしい。そのフロントラインの一部を担う腸管の叢、いわゆる腸内フローラは、人間の脳のはたらきともけっして無関係ではない、という話は、わたしには難しすぎて。ともかく、この嚢が腫れたり破れたりするのには、いつもながら人知れず一喜一憂していることよ。

 

iPod miniとiPod touchが

 抽斗から、iPod miniiPod touchが出てきた。移動中に音楽を聴かなくなったので、これらのデバイスは電気も喰わされずに静かに暗いところに控えていたのだった。アマゾンで、これらの充電をするためのコードを取り寄せ、電気を与えてみたところ、両方ともきちんと動作する。

 さて、iPod miniのほうには、2008年あたりに聴いていた曲が入っている。しかし、いかんせん、4GBである。そして、2014年ごろによく使っていたiPod touchも、8GBで、もとよりたくさんの曲は入らない。ただ、その少ない容量で、いまのPCには入っていないし、バックアップも取っていない楽曲がけっこうあった。

 わたしは、作業中は、ずっとバロックを流しているが、多少は、歌謡曲も聴く。聴くだけで、もう滅多に歌いはしないが、それでも耳元を流れる曲に釣られて歌詞をくちずさむこともある。今週は、やや遠い身内に不幸があったので、音楽を聴くことはあっても歌うことはしない。ほんとうなら、重い服喪をする間柄でなくとも、親族に不幸があった以上は、聴くほうも慎むべきなのだけど、遠方で葬儀の席に連ならないにしても、どうにも気が塞いでしまうので、低い音量で音楽を聴いている。

 亡くなった人の一生を、知るかぎり思い出して、その冥福を祈ろう。

 

関節や筋肉の痛みと/イノサン

 寝ていてもしょうがないので、今朝は、洗濯をして、食器を洗い、大きくて重い可燃ごみを出してきた。それからしばらく温かいところで転がっていて、うとうとしていたら、滅多にないことだけど、鼻がぐずぐずする感じがあった。関節と筋肉も痛いし、なんだか、本格的な風邪引きになったようで、唯一の救いは、きのうの午前中にがんばって木曜〆切の仕事を納品したことだった。いま、いろいろ諦めて、熱冷ましと鎮痛剤のLをのんだ。Lは、すぐれたくすりなので、たちまち関節と筋肉の痛みは知覚されないようになるだろう。でも、ほんとうのところは?くすりが効いたあとも、もし、知覚できれば痛いという状態はあいかわらず続いているのではないのか。

 『イノサン Rouge』の新刊が出た。コンシェルジェリにひとり囚われた王妃のもとにサンソン家のマリーが訪ねてくる。マリーは、ロベスピエールの主導する恐怖政治のうしろで、体制側の暗殺者として働いている。王妃マリー・アントニアと、サンソンのマリー。かつてベルサイユを舞台に接点をもっていたふたりが、いまは殺伐とした牢獄のなかで向かい合う。

風邪がうつった

 毎年、このあたりを中心にして、前後20日ずつ、40日の間で、風邪の持ち帰りが確認され、およそ2日か3日後には、持病治療のため、免疫力を3種類の薬剤で抑えているわたしが、持ち帰られた風邪によく似た症状を呈することとなる。

 わたしは、ひとりでは自分さえ養えない虚弱さで、しかも、おそらく金を稼ぐ能力自体も高くはないので、へらへら笑いながら自分の風邪を治すまでのことで、だけどこの身体の怠さ、関節の痛み、頭の重さは、さぞかし小意地の悪い菌が体内で暴れているに違いないと睨んでいる。

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「パプリカ」のグラデーションがきれいに出た

 

あと四旬で正月だ

 2日したら、雑誌「天然生活」の新しい号が届いて、それに来年の暦が付録でついてくる。同誌は、今年の2月に版元の地球丸さんが整理手続に入って一旦休刊したのを、扶桑社さんが引き取って秋口からまた月刊で出されているのだ。わたしのように、決まった職場や学校に行かず、家で細々と仕事をして、決まった立ち回り先は病院ぐらいの閉じた生活をしていると、たとえものすごく目新しい特集がなくても*1、季節の巡りを伝えてくれる「天然生活」のような雑誌は大切なのだ。そして、毎年の末に付いてくる暦は、お金を出しても同じものは手に入らないので、休刊が伝えられたとき、まっさきにこの暦のことを心配したものだった。

 もっとも、12月号の特集「冷えとり」で、「毒出し」が進んで身体の反応が現れるという、好転反応を示す「瞑眩」については、もともと漢方薬の方面のことばであるらしいので、持続期間も含めて、よくわからんなあというのが正直なところ。

*1:そのほうがむしろありがたい。

鴨鍋は、どうして

 金曜に生協で届いた鴨鍋セットは、鴨肉のスライスと丸(がん)からなっていて、スープは好みのものを用意しなさいと袋に書いてあった。だから、キムチ鍋のキューブの残ったのを使った。笠の直径が12センチを超える生椎茸とか、新鮮な白菜とか、鍋にする材料は、主に野菜を中心にたくさんあったので、台所のガス台で調理してから出した。〆のうどんも2人前茹でて冷水で締めておいた。豆腐は省いた。

 丸のほうは、けっこう前から煮ておくのに、スライスは、長く火を通すと堅くなるからと、火から下ろす数分前に加える。合鴨でも鴨でも、おいしいことはおいしい。地鶏の十分おいしいこの国で、それでも鴨や鶴の肉が折に触れて珍重されてきた理由は幾つもあるだろう。それでも、鴨肉をかみしめるとき、脳裏をよぎるのは、あのフルハムロードの野鴨のランプの、一般的なバンカーズライトの傘を少しだけ明るめにした緑のいろである。

 

新そばの愉しみ

 もう先月の初めには、新そばが届いていたけれど、今日も新そばの打ったのを茹でてお昼に食べた。乾麺になったそばを茹でるときには、穀物っぽい粉らしさを感じるのに、新しい生そばをたっぷりの湯の中で踊らせているうちに漂ってくるのは、あの青みを帯びたそば殻の気配である。そばは、救荒作物なので、年に3、4回も収穫できるという。そのしまいのほうの恵みを秋の終わりの味覚で受け止められる。

 ふつうの麺つゆを4倍に希釈して、チューブのわさびだけをお供に、水に晒してざるに盛ったのをいただいた。たちまち胃袋へ移動した。

 

そばのはな さいたひ

そばのはな さいたひ