ぴょん記

こつこつ憶える

父という隣人を思う

 

まほろ駅前狂騒曲 DVD通常版

まほろ駅前狂騒曲 DVD通常版

 

 

 iTunes Store にてレンタル。便利屋多田(瑛太)のもとへ、居候・行天(松田龍平)の法的にも生物学上でも子だけれど、行天本人と面識のないはるちゃんを1か月半預かるという依頼が舞い込んだ。預けるのは、行天のもと妻で、彼女と同性パートナーの双方とも海外での仕事がきまっていてはるちゃんを養育できないという設定。ほかに頼れる人がいないので、幼少期に実母等からの虐待を受けて極度のこどもきらいの行天のもとに本人に無断で娘を預けたいという母心がわかるようなわからないような。およそ現実的ではないけれど、まほろ駅前では起こりがちなこと。

 

 『私の男』同様に、映画の中で善悪の彼岸を超えた美意識や価値観をかりに自分のものとして、関係や状況を味わうことがある。それは、文学作品の中で、実際の社会ではたいてい許されない関係や状況に身を置くのと似ている。たとえば、血のとても近すぎる異性と面倒な仲になって何十年かを過ごすことはふつうの百年程度しか生きない人間には荷が重い。ふた夏を越える婚外関係を夫婦ともにそれぞれ続けながら結婚も維持していくのだって、体力と気力をごっそり削がれる。

 

 こどもが苦手なのに、頼み込まれて以前に生まれるように努力したこどもを同居人が預かってきて、子守をしたり一緒にトラブルに巻き込まれたり、好きになったりなられたり、という経験を強いられるのも考えただけでぐったりするものだ。

 

 それでも、多田ができるだけ誠実に各種依頼を遂行しようとする姿勢とか、行天の、けっして洗練されてはいないけれど卑しげではない物腰などをみていると、現代の陋巷や狭斜に生きることがそれほどみじめではないと信じられてくる。

 

 青年には、貧乏すら、似合うことがある。

 

 ただし、ほんとうのところ、貧乏が似合うのは、ぎりぎり34歳までと思う。35歳を越えても、青年であり続けることは可能だろうが、その身に添うていた貧しさはいきなり負の要素に転ずる。

 

 などと、ね。

 

 ところで、多田、行天ともに、はるちゃんと暮らすうちに、きっと「父親」という役割に自らを擬えていたのだろうと思う。多田には、幼い子を亡くして妻とも別れた過去があり、行天にいたっては、前述の通り、自分は幸せな家庭で愛されて育ったわけではないのでこどもとふたりきりにされたら虐待してしまうにちがいないという妙な確信を抱いている。

 

 もちろん、フルで父親という役割を務めるのは、おそろしい重さの責任を伴うものだろう。1か月半という時間を区切られ、しかも、便利屋の仕事やその周辺というタスクの範囲で、はるちゃんの監護を任された多田と行天は、もとより正式な父親ではない。しかし、ともかく学齢前のはるちゃんが病気や怪我をしないよう、心に大きな傷などつけることなく無事過ごせるよう、曲がりなりにも努力している。そういうのをみると、親というのは、まずこどもが気持ちよく起きて寝てを繰り返せるように配慮する、いちばん近くにいる大人なんだなと感じる。それがお母さんであれお父さんであれ。

 

(それにしても、はるちゃんのお母さんが本上まなみで、その同性パートナーが市川実日子というのは、美人すぎる。いいな。)

 

 つぎは、たぶん、『かぞくのくに』を観ます。井浦新安藤サクラ