ぴょん記

こつこつ憶える

二学期がくるけれど 2012/08/27

 7月15日ごろ、「アジールがあればいいのに」で、書いたことの補足。


http://www.asahi.com/national/update/0804/TKY201208040635.html
「学校は、いじめられてつらい思いをしてまで行くようなところじゃない。」ほんとにそう思います。それとは別に、勉強することも大切なので、学校には行かないけど教育を受けられる仕組みを大人が考えちゃらんと。


 攻撃されやすさ(vulnerability)を「脆弱性」と捉えると、校内犯罪のうち水平的虐待の被害者の個性を揶揄ないし非難することにつながるおそれもあろうが、これのいわば含有量が多かろうと少なかろうと、集合体の維持団結のために叩かれ続けなきゃならない義理はないわけで、学校に行かないという選択は、ときには前向きに検討されるべきだろう。


 ただ、その非登校の期間がある程度長くなると、体系的知識の獲得なり、手に職つけることなりの機会を<u>自ら放棄した</u>ことに履歴上はなってしまうおそれがあるので、通信教育や認定試験など利用して、ちゃんと勉強を続けることは大切。学校という物理的枠組みの中で授業や宿題、試験で勉強するきっかけを日夜与えられている児童生徒と比較して、いわばフリーランスの児童生徒になってしまった非登校のこどもは、保護者やメンターとときには相談しながら、けっこうきつい茨の道を歩んで知識やスキルを習得しなきゃならん。いや、心の状態がむちゃくちゃきついときはともかく、落ち着いたら勉強しておいたほうが、たぶんいいってば。


 そういうことを考えるとき、どうしてもまとまったゼニが入り用になることが気になる。非登校の状態で学ぶことが、ある程度余裕のある家庭の子女にのみ許される贅沢になることないように。ただし、どうしても、なぜ、がんばって学校に通っているこどもに与えられるべきリソースを割いてまで、<u>自ら選択して</u>学校に行かないこどもに個別的になることによってかなりハイコストになる教育を施す必要があるのかという隠然とした怨嗟の声は広がるだろう。それをどのように説得して、必要な額の予算を取り付けるのか。


 ひどいいじめに遭っているのに無理に登校する必要はまったくないけど、せめて勉強は細々とでも続けてと思う。わたしの個人的な経験からいうと、中3までの全課程についてせめて7割程度は理解していないと、自分や周りの人の命にかかわる。掃除用洗剤の液性とかね。


 学校を続けるかどうかの判断というのは、わたしがつねづねぼんやり考えている、「ぼちぼち生きること」にも通じるところがある。それは、「ぼちぼち」という語の柔らかな感じからかけ離れて、それは、ばかにされて/きらわれて/にくまれて/軽くみられて/じゃまにされていたとしても、そこが居心地のいい場所かどうかに関わりなく、仕事をしたり生活したりして、自分や他人にあまり害をなすことなく、期限までの時間を過ごして、できれば、いくばくかの価値を生み出す生活姿勢のこと。昔の人はこれを「石の上にも三年」というたらしい。自分をすきな人が誰一人いない場所で生きることはかなりきついことだし、そもそもこういう生活姿勢は、誰にでも必要なものではないけれども。そもそも、「受容されないことを受容する」ことが可能なのかどうか。


 まあ、こういうのは、気持ちのやわらかなこどもにはあまり強いないほうがいい。


http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20120802-01/5.htm
「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回して戦ってでも生き残る」ということをイスラエルは国是にしている。(引用)