ぴょん記

食べる、遊ぶ、学ぶ。

観光地の住人の気持ち

 これは、いまや世界中から観光客を受け容れて、それでもって経済の歯車を回す主要な動力としようという日本という国の民全員に関係する話だろうけども。

 わたしの知人に東日本の有名な温泉町の出身者がいる。彼女が地元で中高生のころ、学校の帰りなどに酔っ払った浴衣姿の中年男性らに日も高いうちからからかわれて、いや、はっきりというと買春の対象として声を掛けられて、たいへん不快であったと以前に語ったことがあった。それなら日没後ならよいとか、そういう問題ではない。何万でどうかい、などと、中高生に冗談にせよ持ち掛けるような中年男性は、ねえ、いったいどうしてやったらいいのでしょう。

 とにかく腹立たしい限りであった、と。しかし、両親とも旅館で働いている彼女には表立って無礼な酔客に抗議する方法がない。抗議したければすればいいではないかというのは、都会のサラリーマンの家庭の考え方で、誰かと誰かとがどこかですぐに繋がっている温泉町では、どこかの旅館かホテルの泊まり客に親が娘にこんなことをいうとはとねじ込んでいくのはかなり難しい。その典型的な温泉町では、ほとんどの住民の経済と町全体とが、お風呂に入れて食べさせて飲ませて眠らせて、という観光客に対するサービスでもって成立している。そのサービスの中には、もちろん豊かな自然や歴史的な建物やたのしい芸能でもって遊ばせるということも含まれる。最後の「たのしい芸能」には、多少のエロ要素もあるかもしれないけれど、だからといって、通りがかった中高生に何万で相手をしろなどと違法行為を申し込むのが許されるわけではない。

 その話を聞いたあと、旅行で観光地にいっても、以前よりもより小さくなって過ごすように心懸けてきた。観光客とその場所で日常生活を送る住民との軋轢は、たとえば京都市で発生するそれに代表される。大きなトランクをときにはひとりふたりぶら下げて市バスに乗る外国人がいて、通勤通学の利用者が窮屈な思いをしているはなしなどしばしば聞く。その迷惑の程度が受忍限度の範囲かどうかは、厳密には人によって異なるだろう。このわたしは、いわゆるHSPではないだろうが、長い間強い光や高い雑音に晒されると、人より早く疲労する。遮光の入った眼鏡を掛けて、ときには耳栓をして、耐えがたい時間を遣り過ごす。にぎやかさに対する耐性は高くない。静かなほうがよい。

 しかし、有名な観光地になると、1年365日ずっとずっと混雑してうるさくて、その中で勉強したり勤めにいったり病気になったり冠婚葬祭をしたりすることになる。それはときとしてとてもつらいことだろう。

 

闇の子供たち (幻冬舎文庫)

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  観光とは名ばかり、「新しい愛」という語で示される、犯罪。