ぴょん記

こつこつ憶える

ブログに書くこと書かぬこと

 そういえばリンクを貼ったりグラフを示したりする論証系のエントリをひさしく書いていない。2004年2月に始まる、最初のはてなダイアリーは、途中から同じ種別の学校に通うネット由来のともだちとの交流の場にもなったので、3日に1度の頻度で、これこれについてはこのように考えているんですよと長めのエントリを載せていた。はてなブログのサービスが始まって作ったブログでは、そういうのが格段に少なくなった。いまどきのことばでいう、「buzz」は、どうもわたしの体質に合わない。同意を取り付けるための状況の設定や譲歩の構文、通常の礼儀の範囲内での謙遜すら、自分が行い用いるとなると後ろ頭に痒みを覚える。同意も、そう、関心すら、ほとんどいらない。

 もちろん、更新報告を目にして、あるいは、たまにこのブログの存在を思い出してアクセスしてくださるゲストのかたには有り難さを感じている。それを前提として述べるならば、このブログでは、「饅頭を食べ過ぎる週末」や、「夢で何度もみる、いまは寂れてしまったふるさとの町の駅前ロータリー」について、わたしの脳のなかを横切った事象の素描がそのまま晒される。人付き合いが少ないからだろうか、ある種のまとめ板や相談ウェブに寄せられるような深刻な人的衝突からはわたしは保護されているようで、目下深刻な私的問題はそれほど抱えていない。

 では、このブログでほとんど書かないことはなにか。それは、わたしの目の前の新聞紙やテレビ画面、PC画面には印刷され映るものだけれども、すぐに自分では操作できないことであって、それには、純粋に政局に関する大きな話題から、個人のブログエントリへのコメントやブックマークまでが含まれる。ところで、本質的な政治の話はさて措き、ブログエントリへのコメントやブックマークまでが避けられるのはなぜか。その理由をひとことでいうと、不用意なコメントやブックマークが及ぼす萎縮効果によって自由に発展する可能性をはらんだ思想が潰されることへの忌避である。清新なことばでものを言おうとする人がウェブ上に現れるたびに、なぜかそれを潰そうという動きも生まれる。そのエントリの続きが読めたら、あるいは、そのブログが更新され続けていたなら、もっと豊かな実りが多くの人にもたらされたであろうに、コメントやブックマークによるひどい扱いを苦にして、途絶してしまうエントリ、又はブログそのものの更新。ああもったいない。そうなるのを見越して、単発のはてな匿名ダイアリーに名文をものされるのも、継続性の維持と顕名性の確保の観点からは惜しまれる。たとえ書いた本人が天狗の落し文のように、落書のライターとして自足しているとしても。そういう意味で、たいていはマイナスの意味のブックマークやましてやコメントなどつけないし、それについて、このブログで論じることもないのだ。わたしにとってよほどあれでも、現在の、又は未来の誰かにとっては有意義なエントリかもしれないし、そういうものに繋がるものかもしれないし。

 

 気に入らないブロガーの鼻っ柱をへし折ったつもりで得々としていても、じつは現在の自分が未来へ生き残るための細長い吊り橋をおのれの斧で谷底へ切り落としていたりして。