高倉健主演の『君よ憤怒の川を渡れ』に、ひどい病院が出てくる。上掲の逢坂剛『幻の翼』の病院と似たようなもので、高村薫『マークスの山』の病院は、少々ましなほどだ。それらの病院に共通するのは、身体ではなくおもに精神を治療することを旨としている(はずの)ところで、病院職員らによる患者に対する接遇がとにかくひどい。暗示をかけて屋上から転落死させようとしたり、拉致してロボトミー手術を強制的に施そうとしたり、無抵抗の入院患者にはげしい暴行を加えたり。昭和も後半に入ってさえ、小説世界で当たり前のように法定外の特別権力関係が存在する「場」として描かれている、その種の病院。
それがひとつの装置として、権力と結びついたとき、人間の存在を社会的にも物理的にも消し去ることが可能になる、という前提のもとに、検察官である高倉健や、警察庁職員である倉木尚武(作中人物;現在WOWOWで放送中の同名のドラマでは西島秀俊が演じているが、小説とドラマとでは設定が異なるので、倉木は措置入院はさせられていない。)は、病院に収容される。もし、こういう病院が現在でも存在するならば、入院・通院している患者さんがたより、病院そのもののほうがよほど社会に対して脅威的であろうし、そこに勤務している医師その他の医療職・事務職の人たちがこわい。
……この設定は、原作である『幻の翼』が書かれてから四半世紀を経た現在、使えないと判断されたのだろう。心の病をあたかもこの世に存在しないかのように扱い、それを治療する病院をいわば反アジールのように社会から疎外してきた時代には、権力者にとって都合の悪い者を闇から闇へ葬る装置として病院を用いることができたとしても、もう平成も26年になっては、同じことはできない。
そんなおおざっぱな偏見が大手を振って通用していた時代に精神医学を志し、現在指導的な立場で診療・研究活動を行っている医療職の人は、ほんとうにありがたいものだ。同列に語ってよいのかにわかには判断がつかないが、いま、原子力工学を学んでいずれ発電所の冷温停止や使用済み燃料を含む廃棄物の処理を手がけようという人をもっともっと大切にしたほうがよいと思う。
ところで、作中、『きのうの夜、用事があって何遍も自宅に電話したのに誰も出なかった。』と、刑事が同僚に苦情をいって、相手がしおらしく謝るシーンなどは妙に新鮮だった。