ぴょん記

食べる、遊ぶ、学ぶ。

外向きの表白

 いわゆる「インスタ映え」に代表される、自分が見たもののうち「映え」る部分を切り取ってSNSなどで発信する行為と、言語でもって自分の触れたものを説明し、たとえばどの部分が特に印象的で、そのために別の作品のなになにを想起した、などと示す営みとの、重なり合いと異質性について考えたりもした。

 「映え」は、画像や映像を受け取った側が解釈する余地が、言語による描写よりも、やや広いように一見、思われる。単語が、文節が、構文が、ぐいぐい読む者の頭を働かせてやがてその意識の中に具象にせよ抽象にせよなんらかの像を結ばせようとする言語表現は、少しずつ肺から脳に通う血液の成分を疲れさせる。その点、「映え」の画像や映像は、一度は発信者の好みのフィルターを通過していることもあって、受け取りやすい。時間もかからない。語彙力や、言語の壁さえ容易く超えていく。

 でもだからといって、それは、言語がなにか心の動いたさまの伝達手段として、画像や映像に劣ることをもとより意味しない。言語は、その気になれば、余白をびっしりと埋めていく。必要とあれば、さらに高次の概念さえ扱うことを辞さない。絵描きや演奏者、塗師や建築家、調理師と同じくらい、日々文字を書き残すブロガーは、ツイッターの人は、大切だ。世界の情景をまるである種の蟻がつちくれをひとつひとつ積み上げるように毎日毎時間毎分毎秒綴っては発信する。

 それは即時に、又は何万年の時を超えてどこかに着くだろう。あるいは、どこへも着かないだろう。

 それもまたおもしろい。

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右上の海胆が特においしかった。根津松本さん。

 小樽で海胆を溶いた醤油で烏賊刺しを食べるまで、わたしは、海胆を食べられなかったし、いまも殆ど食べない。