前日のエントリを何度も読み返してみて、これは自分の感情も問題だから、正当性の評価も理不尽さのチェックも本来は不要なのだけど、あらゆることにつきまとう後ろめたさがここでも発動して、少なくともけっして愉快な気分にはならなかった。
わたしは、悲しくて、さびしい。ふと気付けば、いつも。
ここで、基準がふたつ存在する。ひとつめのスタンダードに拠れば、わたしは、十分に恵まれていて、しかも客観的に幸福そうである。ところが、もうひとつのにしたがえば、懸命に努力を重ねたにもかかわらず、思うに任せぬ事情からそれらが成就することなく、そのうえ、ひとりきりで病みついていることになる。上の、「悲しくて、さびしい」は、この基準にもとづく感慨である。
ずっと、片付いていて温かく乾いたところで眠りたいと願ってきた。といっても、乱雑さはともかく、寒くて湿ったところに寝かされた夜の記憶は数えるほどしかない。住まいを奪われ、国を追われた大勢のひとが地を這い山を越え海を渡り、とても安住の地とはおもえない場所にひとまずは辿り着いて、不足しがちなあてがい扶持の援助物資を補おうと思ったとき、やっとの思いで持ち出した虎の子をひとつふたつと身の皮を剥ぐような気持ちで手放して、もうなにもなくなったらいったいどうすると考えていた。子を誰かに委ねるか、自分の身体を売るか、それとも法に適わぬ業に手を染めるのか。親のためだったら、値がつく限り、売るんじゃないかなと、二十歳だったわたしは、隣の学科の女と夜通し飲んでいたときに呟いたものだ。そういうとき、買い手市場だろうから安いものだろうし、避妊や性病の予防の約束なんかもいざとなったら反故にされるかもしれない。そもそも買い手が言葉の通じる相手かどうかもおぼつかない、などと。いま、わたしは二十歳よりはずっと「大きく」なってしまったけれど、そういう世界が鏡の向こうにあることは忘れない。その世界の物差しでいえば、間違いなく、わたしの人生は安らかにほぼ全うされたも同然だ。