光明皇后の母親である県犬養橘三千代には、前婚で儲けた三子があった。のちにそれぞれ橘諸兄、橘佐為と名乗る男子と牟漏女王である。女王はその後、母親の再婚相手である藤原不比等の子である房前と結婚し、男子三名と北殿と呼ばれる聖武天皇の夫人を生む。聖武天皇には、牟漏女王の異父妹の光明子が皇后として宮中に輝いていたから、父を同じくする房前からも母を同じくする牟漏女王からも光明子にとっては姪に当たる北殿は、わりと控えめにしていたかもしれない。藤原氏から聖武天皇の後宮に上がり、夫人の称号を授けられたのは、北殿だけではない。房前の兄である武智麻呂にもまた、藤原夫人と呼ばれる娘があった。北殿を藤原北夫人、武智麻呂の娘で夫人になった人を藤原南夫人という。ふたりは737年(天平9年)に、無位から一躍正三位に叙されている。
藤原四兄弟の上のふたりが、聖武天皇のもとに自分の娘たちを納れる動機はわかるのだ。妹の光明子には、たしかに男子がひとりと女子がひとりの子供がいる。しかし、聖武天皇の跡継ぎになるべき基王は病弱で、彼になにかあったとき、県犬養広刀自所生の安積が立太子するようでは、藤原氏の政界における力は大幅に制限されることだろう。だから、新しい妃が次々に後宮に立ち現れることは、光明子にとっては嬉しいことではないだろうが、そこはどうか一族のために目を瞑ってと異母妹を拝みながら、同時に、兄弟同士では牽制し合っていくのだ。
日本版ウィキペディアの「聖武天皇」の項には、夫人としては県犬養広刀自の名しかない。でも、このふたりの「藤原夫人」については、いくつかの事績が公文書に残っている。母親の「寝膳違和」を契機に、興福寺に仏像を造り、経文を収めるなど、藤原北夫人の信心深く、また、教養も十分にもった様には、なんとも堂々とした大家のお嬢さんにして天皇家の妻らしいものがある。