ぴょん記

大根のおいしい季節ですね。

昨日は安倍元首相の国葬だった

 7月17日だったか、祇園祭の前祭の山鉾巡行の日、わたしは、奈良国立博物館の展示をみるために、京都駅から近鉄線で奈良へ向かった。途中、大和西大寺駅に停車したが、駅前ロータリーで安倍元首相が遭難したことを思って厳粛な気持ちになった。その後、近鉄奈良駅に着き、奈良博へのバスに乗ったつもりが、なぜかバスはいろんなところに寄りながら、大和西大寺駅で全員降ろされてしまった。しばらく待っていたらまた近鉄奈良駅に戻るからと運転手さんにいわれて、わたしは、おとなしくとても暑い正午近い晴天のロータリーのバス待ちの列に連なった。

 そのロータリーは、狙撃事件が起こった側とは反対側だったので閑散としていたが、バス停のそばを、礼服で供花に向かうとおぼしきカップルや、何やら政府の偉い人が大勢で来てはって、などと話すご婦人たちが通り過ぎていった。犯行の態様や、狙撃を行った被疑者の背景事情などが、毎日のように報じられていた時期だった。ここから遠くはない場所で、いまからそう離れていない瞬間に、安倍元首相は亡くなった、おそらく具体的にはまったく予測していないかたちで。そう思うと、政治的な信条とは別のこころの場所で、気の毒にかわいそうにと感じる気持ちが湧いた。

 岸田首相が、国葬でもって安倍元首相を送ると決めてから、国葬の挙行自体に対する、また、内閣そのものに対する世論は、大きく動いた。そして、わが国の国葬の準備が進むなか、イギリスのエリザベス二世陛下が亡くなり、その葬儀には、天皇皇后両陛下が列席された。亡くなった人を悼むという行いに付随する厳粛さ、敬虔さが、霊柩に一目挨拶をしようと並ぶ人々の長い行列と、儀典に従った制服を纏った人々の正確な動きで示されていた。さりとても、女王と、元首相のそれぞれの国葬を比較するのは、それほど意味のあることとは思えない。国葬にあわせて元首相の死を悼む人と、国葬の挙行に反対する人が、両方存在したからといって、それは、日本という国が破綻していることを示さない。それぞれが真面目に考えた末の行動であろうし、国葬の列に連ならず、また、挙行反対を唱えもしない、大勢の、ほんとうに大勢の人たちにも内心の自由はもちろんあるし、今後、それを表明する機会もちゃんとある。

ぽっかりと、雲。