ぴょん記

上古文学、外国語、数学、調理、編みもの、縫いもの、競争法

病気になるぼくら

 きのうは雨。東京湾の奥に近いこのあたりでも予報されたようには気温が上がらず、20ミリほどのお湿りのもと、一日中、机に向かっていた。いつものプリントアウトされた資料を繰りながら進める作業だったので、それなりに手の脂が奪われた。例年よりも乾燥したこの冬はさすがにわたしもハンドクリームを幾つか買い足したが、どれも個性的な香りがついているので、わたし以外のひとも触れる紙を捲る前には使わない。

 

  水仕事をしたり、手洗いに立ったり、そのたびにしっかりと濃いクリームを手に擦り込んできれいにしておけば、手荒れも少なくて済むだろう。でも、現実はそんなに手肌に親切にできていない。

 手荒れとは関係ないはなしだけど、5年前の春先、わたしの顎の下から胸元に至るかなりの面積の皮膚が、真紫に変色したことがあった。その上、荒れの特にひどい鎖骨の真ん中あたりは、表皮が剥げて、体液がしみ出てじっとしていても始終痛かった。そのときには殆ど外には出られないようになっていたけれど、窓を開けて風が胸元に当たったりするとさらに痛い。慌てて襟を掻き合わせても傷口に繊維が触れてもっともっと痛い。そのとき掛かった自宅近くの開業医(2年ほどでクリニックを閉じた。)が、なんの病気かはわかりません、紹介状?どこか他に掛かるんですか、という扱いで、ワセリンのようなものしか出してくれなかったと思う。その開業医の標榜科は皮膚科で、もうひとつ掛かっていたところは整形外科だったが、その医師らが近医として最低限の注意義務を果たしていたかは甚だ疑問が残る。医療過誤だなどと物騒なことはいわないけれども、せめて皮膚科のほうは、自分ではなんの病気か判断できないことを認めて、速やかに紹介状を出してほしかった。そうしていてくれたなら、総合病院で正しい診断を受けて、約2か月早く、本格的な治療に取りかかれた蓋然性が高かったと思う。

 そういうのは、家族のことではなくて自分の身のことなので、かえって『蓋然性が、なあ。』などと、のんきに振り返ってもいられるのだろう。ぼくらのうちのたいていの者は、医学については大昔に中高の保健体育の授業で受けた古い知識以上のものは殆どもたずに、自分や家族の多くは突然の病に医療関係者と向かい合って対処しなければならない。啓蒙を目的とするウェブ記事やテレビ番組はあまたあれど、あれらは、あくまで、「蒙」を「啓く」ためのものであるから、その先の複数の要素がごちゃごちゃに絡み合う現実の問題の解決に、そのまま役立てられるものでもない。

 転ばぬ先の杖で、ホームドクター制がなあ、と思わないこともない。