ぴょん記

上古文学、外国語、数学、調理、編みもの、縫いもの、競争法

感情と行為とを架橋するもの

 ひとはともかく、誰かのブログを読むとき、それが日記のように書き手の身の回りに実際に起こったことを素材として綴られたものか、それとも、一種のものがたり、架空のはなしをあたかも実生活の記録のように仕立てたものなのか、ほとんど区別などしない。目の前で、堂々と辻褄の合わない「思い出ばなし」を開陳されたことなど、やまほどある。あら、まあ、すごい、と合いの手を交えつつ、そういう話を聞いて笑って、しばらくしたらきれいに忘れてしまうのだ。もちろん、それを元の話し手から聞いた真実の話などとして、誰かに話して聞かせることはしない。ファクトチェックなる語が人口に膾炙する以前から、細部の綻び具合に虚偽のしるしを認める人の数は、嘘吐きどもが把握する以上に多いので、気まずさを回避するために、嘘の混じった話や他人の消息などしゃべり散らすよりは、黙っていたほうがよい。

 掲題にしたがって書きたかったのは、そういうことではない。「惚れたから、服を脱いで共寝する」のが、よくあることとされている。しかし、中には、「そうしたいから、服を脱いで共寝する」という、「惚れる」抜きのこともある。また、「そうしたくもなく、まったく惚れてもいないけれど、必要に迫られて、服を脱いで共寝する」も、あるだろう。まるで、きのうのエントリで書いた、「成人してから同年輩の人と婚姻する/11歳で41歳の人に嫁ぐ/売られてどうにかされる」の3つの選択肢のようだ*1

 さて、「したくないけど共寝する」は論外として、「惚れて、共寝する」と「惚れてはいないけど、したいから、共寝する」の、どちらがよいのかはわからない。ここで「よい」というのは、その場で得られる快楽の多寡ではなく、たとえば、5年経って回顧したときに押し寄せてくる幸福感の密度とでもいえばいいだろうか。

 そういうこと考えるはじめる時点で生物として終わってるのんちゃうかあ、と、オランダうさぎがぶつぶつ言い出した。

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つぎに晴れたら大鉢に蒔こう

 

*1:もちろん、「パートナーをもたずに、自立して生きていく」というのもある。