今年の春先に、わたしがたばこをやめた方法について書いていた。
『またたばこをやめられなかった。』という落ち込みと、禁煙時に陥ることのあるという焦燥感を含む禁煙鬱への恐れで、たばこと関わらなければ1秒も費やす必要のなかった葛藤にこころを揉みくちゃにされていた。そういう心理的コストに加え、たばこに火をつけて煙を吸い込んで消すまでの時間、火元にならないように、手元のたばこが切れないように、あまり煙っぽい匂いにならないようにそれぞれ配慮すること、たばこ代に費やす小銭の準備からは、たばこをやめたら自由になれた。
このように、たばこをやめたらいいこともあるけれど、そしてわざわざ書くほど悪いこともないけれど、わたしは、たばこをやめたから自分がえらいとも、はじめからたばこに手を出さないから誰かがかしこいとも思わない。でも、それは、やめたいまだから書けることで、たばこをやめたいけどやめられなかった長い期間、たばこをやめられない自分のことを疎ましく思うことをずっとやめられずにいたのだった。
『ビブリア古書堂の事件手帖』では、カツ丼の上に、グリーンピース、次いで、梅干しがのっていた。
たばこやめる前もあとも、ごはんは、同じくらい、おいしいなあ。