ぴょん記

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窮して路傍に伏す人に

 きのうの渋谷区内バス停における傷害致死事案について触れたとき、被害者があまりに気の毒だとか被疑者が強く非難されるべきだとか、そういうことももちろん考えた。それらが根底になければ、どうしてこのような惨たらしい事件をわざわざブログに書くだろうか。ただ、そういう気持ちは大抵の人と共有しているだろうし、それらをそのまま掘り下げたところでどうなるものでもないし、という気持ちがあった。そこをあえて書ける人が、広く世の中に訴求できる文章書きというものであろうが、どうやらわたしはそうではないらしい。

 さて。とりわけ優秀でもかといって陋劣でもない、だいたい普通の人間ばかりで、この世の中はできている。近隣の住戸から足音や戸の開け閉てをはじめとする、ときとしてアリエナイ大きさの騒音や振動などが伝わってきたとき、わたしは、おまじないのようにそう念じる。集合住宅に住んで騒音等に悩まされている人は、真上の部屋でソファから床に元気よく飛び降りたりする子どもさんを憎く思うし、そう感じる自分を情けないと嘆くこともあるかもしれない。でも、そんなことは、その子どもさんにはほとんど伝わっていない。せいぜい思い切って上階へ注意しにいった当日とその翌日か翌々日ぐらいまで、また下の部屋の人に怒られたと覚えているくらいだ。そして、うちだって最大限気をつけて暮らしているのに階下の住人はかなり厳しすぎるとさえ、子どもさんのお母さんは、思う。こういうのは、防音のしっかりしていない、古めの集合住宅では、よくあることだ。もやもやした感じで、両方が引っ越すことなく、長く上下で暮らしたりする。そこに事件は生まれない。

 言わなければ伝わらないけど、伝わったからといって自分の思いがかなうとは限らない。その繰り返しで、人間の神経は次第に摩耗していく。普通は磨り減るだけだが、ごく稀に事件が発生することがある。

 ここはバス停です、ここには長居しないでください、と被疑者が伝えたのに、その事件の被害者の女性は、バス停から立ち去らなかった。雨露をしのげる屋根と、腰を下ろせる仕切付きのベンチがそのバス停にはあった。立ち退かない被害者をバス停から排除するために、袋に入った石が用いられたという。石。封建時代に、村落共同体に入り込んできた無宿人を追い払う場合と比較して、どうなのだろうか。

 窮して路傍に伏す人に、いったいどうすることがよいのだろう。人によって望むものは異なるだろう。そしてその望みのものが適切なケアに繋がるとは限らない。いや、そもそも「ケアする」という行いが標準的に求められているのだろうか。自分の立ち位置をどこに定めればいいのだろうか。

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パンが古くなる前に急いで食べた