ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

『鎌倉殿の13人』第42回

 東大寺の大仏殿を修復した際には頼朝との面会を拒んだ陳和卿が、「後鳥羽上皇の側近」源仲章に連れられて、京から鎌倉へ下ってきた。母親の弟である執権義時との相克に苦しむ将軍実朝に唐船を建造させ、鎌倉の分裂をさらに促進させるためである。

 とはいうものの、陳和卿自身は、スポンサーを見つけて自分の設計図を実物大の3Dに起こすことが望みだろうし、そこにテクノクラートとしての魂を根幹から揺り動かされた八田知家殿(74)らもいたことだろう。トウの手引きによって普請場に潜り込んだトキューサの暗躍により設計図は改変され、左右の釣り合いを失った実朝の船は由比ヶ浜を離れることはなかったけれど、人々は一瞬の夢をみたはずである。

 ところで、清盛は日宋貿易を実際に行っていたので、造船そのものはともかく、操船に詳しい人は大勢いたはずで、そういう人々がトキューサの改変した設計図に気づかなかったというのもおかしな話で、きっとそういう人々は賢く口をつぐんでいたのだろう。

 

 上月先生は、東北大式の体操の本も出されているけど、それは、生協の本の流通で手に入るものらしい。