ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

魂の半分を欠いたまま生きるということ

今週のお題「かける」

 昨今の時事問題に絡めてということではないけれども、丸木戸マキさんの『オメガ・メガエラ』を新刊が出るたびに読んでいます。

 

 これは、「メタ・バーズ」というジャンルに属する作品で、男女という性のほかに、男女それぞれに「アルファ・ベータ・オメガ」という三つの性があり、アルファとオメガが番うことで、社会的支配層に属するアルファの子が生まれるが、オメガはそれ以外のところでは社会的な劣位に置かれて、ひとりでは旅行もままならないという世界を舞台に描かれた一連の作品のひとつ。この設定は、北米の小説でも用いられているとか。

 さて、『オメガ・メガエラ』。

 生まれた子がオメガであると、首の後ろに焼き印を押されるし、名前の一部にも獣の文字が用いられる。アルファは、男であれ女であれ、オメガの配偶者を妊娠させて、アルファの子を挙げることが家名存続のための重大事で、そのために迎えられたオメガが子をなせないとなると、家にとって不吉な「メガエラ」として、離縁の理由にすらなる。『オメガ・メガエラ』は、ディストピア創作として読むことも可能だし、絶望的な状況で知り合った一組のカップルが身に降りかかる火の粉を払い、荒波を乗り越えて活路を見いだす冒険小説として捉えることもできるだろう。

 ここで、『オメガ・メガエラ』の中には一つの寓話があって、人にはそれぞれ魂の半身というべき相手があり、いずれその人に巡り会い、ともに生きるためにこそ人間の生命はあるという意味合を含むらしい。その魂の半分を手にする者に出会えない、または、離別してしまうことは、その寓話を信じる人にとっては最大の悲劇であるはずである。犀門というオメガの男性は、自分と夫の征十郎こそが魂の半身同士であると信じて、子のない自分が婚家で虐げられ卑しまれ、征十郎が家のために二人までも新たな妻を迎える悲しみに耐えて暮らしていた。しかし、あるとき、その認識が根底から覆される事実を知り、それは新たなる惨劇を生んだ。

 自分がなにかに「欠ける」こと、つまり、己が魂の欠落を知るものが、誰かの存在によってそれを埋めようとすることは、いったい長続きするものなのだろうかとか考えてしまう。

 メタ・バーズというジャンルが生まれた背景とか、その世界観を共有する作品が小説でも漫画でも次々とつくられて読まれている理由とか、ほんとうに興味深いものがあります。それは、もう、たとえば「終わらない世紀末」によるものなどではないでしょう。