ぴょん記

食べる、遊ぶ、学ぶ。

わたしだけひとり、と、わたしもまたひとり

 各種発達障害のために二次障害として、鬱病などを発症することがあると知ったのは、十年前か二十年前かは定かではないけれど、もう十分に大人といっていい年齢に達した後だった。

 発達障害そのものは精神病ではなく、一種の特性、その人の個性の一部であること、というのはわかる。その発達障害をもつがゆえに、外部との接触があるいは契機となるなどして、二次障害としての精神の病を患うとき、まず手当てされるべきは精神の病で、発達障害そのものへの対応は後回しにされる。二次障害が鬱病ならば、抑鬱、不眠、食欲不振、ひどいときには希死念慮などの各症状に、医師やカウンセラーが対処して、そのきっかけとなった何らかの発達障害による生活や学業、仕事上の困難を減らす操作は、鬱病が治ってから、ということになる。

 さて、「大人の発達障害」について、ここ数年、ほんとうによく語られるようになった。本人や自分が困りすぎず、二次障害もなるべく起こさないように、温かい配慮に包まれて終生暮らしていけるならそれに越したことはない。しかし、思うに、アフリカのサバンナに負けず劣らず、日本の社会に限ってみても人間の活動範囲における生存競争は、弱みを抱える個体に対してそれほど親切でも保護的でもないから、実際のところ、多くの発達障害を抱える人が、発達障害そのものと、それから派生した二次障害である鬱病などを自分でなんとかしながら、日を送っているのだと想像する。

 そういうとき、『わたしもまた、困りごとを抱える大勢のうちのひとりなのだ。』と思えれば、『よりによってわたしだけが、こんな障害を抱えて、しかもこんな病まで患って。』と嘆くよりはましな気分になれるものだろうか。これについて、わたしはどちらかといえば否定的で、その理由は、たとえば、電車で隣に座っている人が虫歯で苦しんでいて、たまたま自分も虫歯の痛みを託っていたとしても、自分の痛いのは相手の痛いのと、同病相憐れんだからといってもそれでなんとかなるわけではないように、困りごとや病苦は、あくまでパーソナルなものであると信じるからだ。

 今回は、悲観的な感じのまま、終わります。

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塗りはするけれど続く乾燥