ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

お金では贖えない?

 王朝から南北朝あたりまで、「贖い」という習慣が公家社会にはあって、誰々が不始末をしましたわたしが後見人なのでお詫びの宴を開きます、と、孫娘なり愛人なり、たぶん見目のよい女房が宮中でしでかしたちょっとした間違いを言い訳にしてパーティと引き出物の応酬をしていたらしい。『とはずがたり』あたりに出てきた。

 たとえば、だれかがおのれの名誉を毀損されたことを不服として相手方を訴えた場合、現行の民法では、金銭をもって慰藉するほかは、謝罪広告の掲載くらいしか予定していないようだ。しかも、現実には、謝罪広告の掲載請求が認容されることはわりと少ない。かといって、額を地面に擦り付けるほどの土下座も、満座のなかで号泣してのお詫びも、それを受けるほうがかえってなんだか厭な気分になるものである。

 さて、謝罪広告が認められることも少ない、身体を張ってのお詫びもあれとなると、結局のところ、残るは慰謝料くらいのものだけど、名誉毀損行為を働いた者がもう金輪際同様のことはすまいと堅く心に誓うくらいの額は、なかなか認容されないようである*1。まして、それが、大きな出版社ともなると、弁護士費用込みで550万円プラスぐらいなら、損害賠償怖さにスクープを諦めることはない。むしろ雑誌の存続と会社の経営のために、さらに熱心に調べに調べさせて、書いて発行する。名誉毀損を働かれたほうは、550万円プラスで、傷ついた名誉感情と裁判に要した経費と時間がすべてケアされるはずもなく。そもそも幾らもらったら傷ついた心が慰められるのか、誰が量るのだろう。そのとき基準にされる「通常人」とは、いったいなにものなのだろうか。

 

 

*1:とはいえ、はなからなにも失うものはないという人もいる。