ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

身体の仕組みが分からない

 数年前、胃腸の調子を崩したときに、相当時間以上前に摂った食物(時間を掛けてそれのみ咀嚼した果実)が、胃からそのまま返品されてきたことがあった。シンクのまえで涙まみれになって苦しみながら、噛み砕いたままの大きさ、硬さのこれらが小腸へ下っていったとしたら、いま以上に苦しかったのではあるまいかとふと思ったものだった。

 わたしは、生まれてからずいぶん経つというのに、いまだに自分の身体をうまく扱いつけないままでいる。かつて長い距離を歩けた足、同じく重いものを担げた肩、ついぞ器用に動くことはなかった手指、いつも文字を探している眼。そして、内臓のあらかたは病み、脳は老いたがその老いを自覚できずにいる。

 身体とは、生きている時間の川面をわたるフネである。時間の流れを感じられるのも身体があればこそ。ただし、身体をもつものならば、なんでも時間の認識をもてるかというと、そうではない。たしかに、イヌの嗅覚は、3時間前に目の前の道を通り過ぎたネコと、1時間前に通り過ぎたネコとが違う個体ならば違う個体としてそれぞれの通過時刻を知覚できることだろう。イヌの嗅覚によって知覚される環世界とはそういうものであるから。しかし、イヌには、自分の2代前の先祖が飼われていた家のことを想像することはない。そういう意味では、イヌには主観的歴史をもつ余地はない。

 かつて歴史を学ぶことに何の意味があるのかと問いの形を取りつつ、齢14にしてそれは無意味であると断言した人がいた。わたしはその人を教え諭す立場にあったが、そもそもと、おそらく現存する生物としてはホモ・サピエンスしかもちえない時間の認識から語ったとしても*1、目の前の年表、出来事、人物、史蹟憶えられないそもそも教わりたくないという一心の14歳には、こちらの真意を伝えきれないと考えた。何百年か前に、大きなお城のどこかで評定が下された事柄と、同じ時刻に番頭に叱られて商家の裏口で小僧さんが密かに落とした涙とを人間は振り返ったり想像したりすることができるんだよね、と言ってみてもよかったけれど。だけど、そういうのって、他人がいってきかせることではない、と思う。

 たくさんの雨を降らして大きな雲の群れが通り過ぎたあとに、そういう20年くらい前に経験したことを振り返る初老の脳が、胃腸の動きが止まったり、反対に異常に代謝が活発になったりする自分の身体に思いを致すとき、そこには大きな疑問符がいくつも生まれる。おれ、「国際金融論」とか選択する前に、最初歩の解剖学と生理学、勉強しておいたほうがよかったんじゃないかな。時間の認識とか歴史を学ぶ意味についての考えはかろうじてあるけれど、肝心の自分の身体のことがまったくわからないよ。

 

内科学 【分冊版】 (第11版)

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*1:でも、ゾウやクジラは、もしかしたら、ほんとうは、もっと……。