ぴょん記

食べる、遊ぶ、学ぶ。

誰かにとってひどいことが

 たとえば、戦勝国にとって、敗戦国の代表が「負けました」と証書にサインした日は戦勝記念日であるが、同時にその日は、敗戦国にとっては敗戦記念日だ。それほど表裏一体の事象でなくても、誰かにとって就職が決まった日が、別の誰かにとっては他者の故意に基づいてなされた行為によって命を奪われる日であったりする。

 この国は、犯罪によって命を落とす人の一定人口に対する割合が世界的にみても小さいといわれている。だからこそ、凄惨な殺人なり傷害致死なりの報道が際立ってみえるという説明も成り立つかもしれない。でも、どこの国で、どんな事情で行われるにしても、人ひとりの命を消す行いは、どの命も平等であるという前提に立てば、同様に重いものである。

 ときどき、人をマンションの一室などに囲い込んで、暴言、暴行やネグレクトを繰り返すことでその場を逃れる意思を奪い、金銭を巻き上げたり、その他の方法で搾取したり、果ては、殺害してしまったという事件のレポートを読むことがある。被害者らにも、他に行くところがなかったり、精神的にそこにいる誰かに依存していたりという事情がある。被害者が、加害者の行為によって徐々に判断力を奪われてしまった場合もあれば、いわゆる「境界知能」の当事者だったケースもある。

 身体を傷付けたり、命を奪ったり、そういう結果を発生させるまでに、引き返せるポイントは、きっといくつもあった筈である。もし、「わたしたち」が、なにかそうした犯罪行為に加功しそうな雲行きになってきた場合には、早め早めに引き返して、どうか人に怪我をさせたり死なせてしまったりしないように、歯止めとか報償とか、厚めに用意しておきましょう。

 そういうのも社会統営のための技術のひとつだと思います。

 

  夏になると、こどもにお寺で地獄絵を見せるというのも、そういう「装置」のひとつだったのかな。